ちゅうすけのひとり言(32)
宮城谷昌光さん『風は山川より』(全5巻 新潮社 2006.12.1~)は、野田菅沼家3代を主軸に、徳川3代(清康・広忠・家康)をからめた、雄渾な物語である。
もちろん周辺の今川家や武田信玄にも筆がおよぶ。
それで、つい、余計なことを期待した。
今川家の重臣であった、紀伊(きの)守正長(まさなが 没年37歳=1572)の田中城の立ちのきの事情にもくわしいかもと。
武田信玄の軍が、駿河国田中城を攻めたのは、永禄13年(1570 4月に元亀と改元)の正月である。
『風は山河より 第5巻』からひく。
(永禄12年の)十二月十三日に信玄は府中(駿府)にはいり、家康に命じられて府中守禦の任についていた岡部正綱(まつさな)らを武力で排除せず、臨済寺の僧をつかって懐附(かいふ)させた。年が明けるや、信玄は軍を西進させて、花沢城と徳一色(とくしっしき)城を攻め、正月のうちに開城させた。徳一色城は馬場信春(のぶはる)によって改修され、田中城となる。二月中旬まで田中城にいた信玄は、清水(しみず)に移り、水軍編成をおこなうと同時に江尻(えじり)城の普請をはじめた。
たった、これだけである。
『藤枝市史』(市史編纂委員会 1979.3.31)fは、
元亀元年(1570)1月22日、武田信玄は花沢城を攻略して27日にこれを陥入れると、その余勢をもって田中城を攻めた。
この時田中城を守っていたのは長谷川正長である。
思うに由井美作守は永禄3年(1560)の桶狭間の戦に戦死をとげたので、その後をうけて、小川に居館を構えていた長谷川氏が守衛したのである。
(長谷川正長の祖父は法永長者と呼ばれ今川の家督争いに氏親を庇護した功臣である)武田勢は新宿口・平島口から潮の如くおしよせた。
正長は一族二〇人余、三〇〇騎でこれを守ったが、衆寡敵せず、辛うじて脱出して金比羅山へ逃れ、再起逆襲の機をねらったが遂にその機会がなく、遠州に走って家康に投じた。(改行はちゅうすけ)
疑問点は、「一族20人余、300騎」の「300騎」である。
田中城は、本丸がわずかに860坪の平地城である。
こんなちっぽけな城にはたして「300騎」も収容できたであろうかか。
また、長谷川正長を受け入れた徳川家康側にしても、「300騎」では長谷川正長の処遇に当惑したとおもう。
『駿州雑記』巻38は「長谷川次郎右衛門正長」の項を立てて、
伝えて云う。
長谷川次郎右衛門正長は、某元長の子なり。のち紀伊守に任ず。
頭郡徳一色の城(注:田中城)に在り。
永禄十三年(1570 注:元亀元年でもある)、武田信玄のために攻められ、一族二十一人、その勢三百余人を従え、去って遠州へ赴き、東照宮に奉仕。
元亀三年(1572)十二月廿二日、味方が原御合戦の時討死す。
墓は止駄郡小河村会下島、長谷山信香院(曹)に有り。
法名長谷院殿前紀州守林叟院信香大居士と号す。(略)
織田信長の要請で、家康は軍を率い、はるか、近江国まで遠征した。
いわゆる、姉川の合戦である。
徳川軍の朝倉援軍への活躍があって、織田軍はかろうじて勝利をええた。
この戦いに、長谷川正長も参加しているらしいが、その記録をいまだ、目にしていない。
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