現代語訳『よしの冊子』(まとめ 6)
『よしの冊子』(寛政3年(1791)4月21日つづき)より
一、盗賊が入ったときの、隣家などと申しあわせのお書付が出たのち、ところどころですこしずつ思っていることを打ちあわせたよし。
旦那は火事羽織、家来は法被か白木綿の鉢巻、あるいは白木綿のたすきがけなど。
向こう三軒両隣などの申し合わせもあり、または駿河台胸突坂のあたりでは向こう七軒両隣,うしろ三軒と申し合わせ大騒ぎのよし。
(小姓組)番頭:大久保豊前守(忠温 ただあつ 40歳 5000石 屋敷:四谷御門外)方へ押し込みが入ったのは本当の話のよし。
馬場に抜き身をさげた5人がいたよし。足軽小頭が梯子で押さえたとのこと。それで足軽小頭が立身加増されたよし。
一、長谷川(平蔵 46歳)は、なんと申しても、このごろの利け者のよし。もっとも、いたって大衒者ではあるけれど、それをお取り用いあるのは、宰相ご賢慮の上だろうと噂されている。
ことに町方では一統相服し、本所へんではこの後は本所の町奉行になられそうな、いや、なってほしい、慈悲深い方じゃと歓んでいるらしい。
【ちゅうすけ注】
長谷川家の屋敷は『鬼平犯科帳』では目白台だが、史実は南本所の菊川。
奉行とは本所奉行のことか。
(都営・新宿線[菊川駅出入口A1の標識 画面・左下)
(長谷川平蔵邸宅跡・表示板)
盗賊の召し捕り違いがあったら、たとえ3,4日も牢内におれば、それだけ家職もできず妻子も養いかねるだろうから、3、4日牢内にいた分の手当てを出牢のときに遣ってもいるとか。
【ちゅうすけ注】
火盗改メの役宅は、 『鬼平犯科帳』では清水門外(そと)だが、史実は組頭の屋敷がそのまま役宅。したがって長谷川組の場合は本所・菊川。1,236坪。
平蔵宣以の孫の代に、遠山金四郎が下屋敷として買った。
(同所・丸山歯科医院が掲出している標識)。
(遠山左衛門尉(金四郎)景元の下屋敷に買われた長谷川邸)
松平(久松)左金吾(定寅 さだとら 50歳 2000石)は、誤認逮捕であっても打ったり拷問にかけたりして責めるので、町方では左金吾様はいやだ、同じ縛られるなら長谷川様にしたい、左金吾様はひどいばかりだ、平蔵様は叱ることもしないし、打ちたたきもなされないと、どこでも評判がよろしい。
【ちゅうすけ注:】
『よしの冊子』によると、長谷川平蔵は拷問などしなくても、すらすら自白させていると自慢げに話している。
テレビの『鬼平犯科帳』に拷問シーンが多いのは、視聴率かせぎのためかも。
一、先日、盗賊流行の節にお書付が出たとき、清水家でもお触が出、他所へ出たら本供で出るようにのとお書付が出た。ご近習ららいなら侍でもあろうが、それより以上は本供というところが、中間一人の外はない、馬鹿な書付だ。ああ事を取り違えるから世上がゆかぬといっているよし。
一、盗賊がはびこっている当節、武士方へ押し込んできたときには打ち捨ててよろしいとの最初の書付が回っているが、「うち すて」は討ち捨ての字であるべきところ、打ち捨てと書いたのは学者ぞろいの集まりにもあるまじきこととの噂。
2度目の書付に銘々の働きの様子をもご覧なされおかれるべき厚い申し合わせ―――右ご覧のところを、お聞きおかれるべきにもとのあいだ出るところもあるよし。
これはご覧ではあるまいお聞きであろう。
とてもご覧はできないことだと沙汰している者もいるようだ。
なにか少しのことを見出だして誹謗したがっているよし。
『よしの冊子』(寛政3年(1791)4月21日つづき)より
一、森山源五郎(孝盛 たかもり 54歳 )はこれまた幸せ、ほかにお目付になりそうな人もなかったかと沙汰されているよし。御徒頭では、植田十郎兵衛が世話を焼き精勤しているところを、森山に先をこされたので、大いに不平に思っているよし。
【ちゅうすけ注:】
長谷川平蔵の政敵。寛政3年5月11日、目付。300石と廩米
100俵。
冷泉家の門人ということで、松平定信に目をかけられて、伊豆・
相模・安房など江戸湾の視察に随行。
長谷川平蔵が死の床にあるとき火盗改メ代行に就き、その死とと
もに本役。
エッセイ集『蛋(あま)の焼藻(たくも)』で、前任の平蔵の仕事
ぶりを口をきわめて非難。
森山源五郎の家譜
植田十郎兵衛は、横田十郎兵衛延松(ながとし)の誤記。46
歳、200石廩米100俵。
徒(かちの)6番手の組頭。森山孝盛に2年遅れて、寛政5年に
西丸目付。
一、非番の御先手に召し捕られたがいまだに吟味中の者の中の4人は、よく盗賊に出た模様。
夜盗などを召し捕った与力同心の名前を書きだすようにと、御先手頭へも仰せ出されたよし。
中山下野守(直彰 なおあきら 弓の8番手の組頭 76歳 500石)組の横井三郎右衛門の手の者から一人、うまく盗賊を召し捕ったよし。三郎右衛門はかつてから召し捕りものの巧者として高名の者のよし。
御先手へ銀子を下されたのは、いままでに例がないので、一統がありがたがっているよし。
一、長谷川平蔵の倅(辰蔵)を御見分の節、武芸の分はみなお断りをして、素読講釈のみ御見分を受けたいと申し出があったので、先日、若年寄方の御宅で見分されたよし。
一、長谷川(平蔵)がづく銭(鉄銭、ババ銭)を鋳つぶしたついでに銅銭も鋳つぶしたとの噂があり、このこと、平岩次郎兵衛が何ほどか知っているらしいが、勘定奉行が取り上げるほどのことでもないと、むなしく控えいるとのこと。
【ちゅうすけ注:】
平岩次郎兵衛親豊(ちかとよ 廩米100俵。御勘定。54歳)。
一、米価が上がったので、それにつれて諸物価もにわかになんとなく上がり、鳥目(貨幣価値)はすこし下値になったもよう。
両替屋一統へ、文銭10貫文(文銭1万枚。1万文。2両前後)ずつ差し出すように長谷川(平蔵)が申しつけたところ、文銭を手持ちしていない者は、耳白(みみじろ(注:正徳4年(1741)、亀戸で鋳造された寛永通宝。外輪が広いのでみみひろが訛ったと)を出した者もあったよし。
これで、銭相場がまたまた高値に戻ったと。
だいたい銭の値段は落ち着いたのに、物価を引き上げるのは不届である、と沙汰しているよし。
一、米屋一統へ、(100文で)1升2合より高く売ってはならないと、長谷川(平蔵)が申し渡したよし。
かつまた、舂米屋一統へは、貸し臼一つにつき御払(下げ)米3俵ずつ渡すから、代金持参で浅草の御米蔵へ出頭するようにと長谷川平蔵が申し渡したが、現金払いの上に、わずか10俵や15俵の米に車賃をかけ、さらに1升2合で売ったのでは引きあわない、と米屋どもが従わなかった。
そこでこの節、武士町人とも、あまりに下をいじりすぎると、長谷川のことをよくはいっていないみたい。
『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より
一、(久松)松平左兵衛佐(康盛 やすもり 32歳 6000石 中奥小姓)殿の元締何某は、4年前に娘を片づけようと、上の用向きと偽り、呉服屋などから反物をおびただしく取り寄せ、かつまた娘方へ道具をやろうして、家内の道具を残らず運び出し、鍋釜とへっついだけを残し、夫婦と娘ともども逃げ去ったよし。
右の元締は先日、本町あたりに料理茶房を拵え、娘で入るを取るもくろみだったが、悪事がばれ、左兵衛殿もお知りになり、(久松)松平左金吾(定寅 さだとら 先手・鉄砲組頭 加役 50歳 2000石)へ内々通じて、召し捕ったよし。およそ1万5,6000両も借金があったよし。
もっとも、この者たちは左金吾が左兵衛殿へ引き渡したよしの沙汰。
【ちゅうすけ注:】
家斉の晩年に西丸側衆をつとめた伊勢守康盛。同属・久松松平
のよしみでもあり康盛は20歳近くも年少でもあり、左金吾のこと
だから、気を利かせたつもりの処置であろうか。
一、経済講釈、経済学など何年稽古、師匠はだれそれなどと書き出すように、中川勘三郎(忠英 ただてる 1000石 目付 のち長崎奉行)、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付 300石と廩米100俵)が掛りで仰せだされたよし。
これも清助(?)が進言したことであろう。経学、経済とどうわかるものだ。
清助はとかく要らぬことを進言する、との評判のよし。
一、町奉行には長谷川平蔵(宣以 のぶため 火盗改メ本役 46歳 400石)、しかし、人足寄場はこれまで通りに担当、とのもっぱらの噂。
一方では、松本兵庫頭が町奉行に登用されるらしい、との噂もあるよし。
先日、本多(弾正少弼正籌 まさかず 陸奥・泉藩主 老中格 53歳 2万石)侯へ差し上げた書上げに、御老中方の思し召しにあい適い、こんど町奉行を仰せつけられるとあるよし。
【ちゅうすけ注:】
本多忠籌について、定信は、「経済は泉侯、政治は自分」と頼り
にしていた。
また、長谷川平蔵が火盗改メの助役をみごとにこなした時、わざ
わざ呼んでその労をねぎらったとも『よしの冊子』に記されている。
人足寄場に月3回心学の講師として、中沢道二(どうに)を紹介し
たのもこの人と。
しかし、お咎めをこうむった前歴があるので、いかがなものかと申し上げる者もいたところ、(松平)越中(定信)様のご意向は、以前に遣ったことがあるが、松本も山師同様で人柄がよくないが、才子なので遣い方次第であろうということなので、これは町奉行は間違いなし、と噂されているよし。初鹿野(河内守信興 のぷおき 北町奉行 47歳 1200石)は卒中風との風評があるが、全体は御役筋に不首尾があるゆえに切腹もの、ともっぱらの噂。
【ちゅうすけ注:】
松本兵庫頭といえば、田沼時代に勘定奉行に抜擢された秀持
(ひでもち 田沼失脚に連動して500石から半知)。逼塞は許
されたが、その後、在職中の越後米購入にからんで再び逼塞。
天明8年(1788)に解けているが、まさか町奉行候補とは。
一、町奉行に長谷川平蔵、との沙汰はなかった。中川勘三郎か根岸肥前守(鎮衛 やすもり 勘定奉行 55歳 300石)だろう、との風評がある。もっとも根岸は(勘定奉行の)公事(くじ)方も勤めているので適任かもしれないが、中川はまだ町奉行という器量ではなかろう。そのうえ超選(順序を飛びこえて官位がすすむ)にもなることでもあり、かつこのごろは目付のお役目もいろいろ掛りが多くなっていて手が抜けない時だけに、御下命はあるまい、と。
【ちゅうすけ注:】
中川勘三郎忠英(ただてる) 1000石。目付。徒(かち)の頭だ
ったときに浪人・吉田平十郎を宇垣貞右衛門の弟のように偽っ
て前嶋寅之丞の養子にとりもったことを咎められて、出仕をとめ
られる。
【蛇足】
逢坂 剛さんの時代小説[重蔵始末](講談社文庫)シリーズの
近藤重蔵---そう、蝦夷・サハリン探検をしたあの重蔵が
仕えたのが、この中川勘三郎忠英。
一、松平左金吾殿は、なにかというと「越中(老中:松平定信)へそういいましょう」「越中がこういいました」と、諸事に越中様を鼻にかけるので、仲間衆もそうかと思い、恐れをなし、無理なことでも「はいはい」と返事しているよし。万事、むずかしくいうので、西下(定信)の目明しだともいわれているよしの沙汰。
一、小田切土佐守(直年 なおとし 49歳 2930石。長崎奉行から町奉行。この寛政3年に49歳)を召され、来る16日着のよし。柴田七左衛門(康哉 やすかな 2000石 駿府定番から奈良奉行)も召され、こちらは19日着のよし。小田切は町奉行、柴田は奈良奉行。遠国も折々は勤めるとよい。
(町奉行には)目付からばかり任命されるときまっていてはよくない。小田切も、長崎奉行から抜擢……ぐらいのことはありそうだ、といっていたよし。
一、町奉行は目付を勤めていない者はなれない。だから長谷川平蔵の目は絶対にないだろう、との噂が流れている。
ところがこのたび小田切(土佐守直年)が拝命し、目付の経験のない町奉行が誕生した。
いやいや、以前にも山田肥後守(利延 としのぶ。2500石。作事奉行から寛延3年(49歳)~宝暦3年(53歳)の3年半町奉行)のように目付を経ないで町奉行になった先例もある、などと不自由なことがいわれているが、その任にふさわしい人材がいたら、どこからでも登用したらいいではないか、との声がもっぱらだ。
大坂へは長谷川平蔵が行きそうなものだ、あれもせめて大坂へでも行かなければ、腰が抜けようと噂されている。
総体にお役人は平蔵を憎んでいる様子。
『よしの冊子』(寛政3年(1791)9月5日つづき)より
一、長谷川平蔵(宣以 のぶため 46歳 400石 先手・弓の2番手組頭 火盗改め方)は転役もできず、いかほど出精してもなんの沙汰もないので大いに嘆息し、もうおれが力は抜け果てた、しかし越中殿(老中首座・松平定信)のお言葉が涙がこぼれるほど恭けないから、そればかりを力に頑張るしかほかに目当てはない、これではもう、酒ばかりをくらって死ぬだろうと、大いに嘆息して同役などへ話しているらしい。
【ちゅうすけ注】
長谷川家の家禄はずっと400石---知行地は、下総国武射郡
寺崎(現・千葉県山武市寺崎)に220石、同国山辺郡片貝(現・
千葉県山武郡九十九里町片貝)に180石で、計400石だが、先
手組頭は1500石格なので、それにたりない足(たし)高1100
石が支給される(格1500石-家禄400石)。
足(たし)高がもらえる役職につくことを出世という。
さらに、火盗改メの組頭には、役料40人扶持を支給される。
(1人扶持は1日玄米5合)。
一、長谷川平蔵は奇妙な人で、盗賊を召し捕るのは神技といえる。
田沼家の浪人と称して本所で剣術師匠をしながら近隣の貧家に米銭などをほどこしてもいて、賢人と崇められている男を長谷川平蔵が召し捕った。
その節、堺町(芝居町)の役者たちも博奕をしていて、いっしょに捕まった。で、右の浪人は盗賊の首領であったよし。
また旧冬の出火の節、立派な法衣の和尚とりっばな立派ななりの侍が立ち話をしているところを、平蔵が馬上から指図して捕らえたら、案の定、大盗人であったよし。
【ちゅうすけ注:】
このエピソードは、父・平蔵宣雄(のぶお)が先手・弓の8番手組
頭で火盗改メ方の長官をしていた明和9年(1772)に、江戸の半
分近くを焼いた行人坂大火の放火犯を逮捕した事例を、換骨奪
胎して平蔵宣以の手柄にした形跡がある。
父・宣雄の史実では、18歳ほどの若くて素足のかかをヒビ割れ
をさせている坊主が、ふさわしからぬ高位の僧衣をまとっている
ので「怪しい」と逮捕してみたら、行人坂の大円寺(現・目黒区
下目黒1-8-5)の納屋に放火、その騒ぎのどさくさに同寺の住
職の僧衣などを盗んだものと。
また火事のあと、家根や火事場へ参って普請の相談をしているところを長谷川が召し捕ったよし。これも大盗だったらしい。
このように奇妙な捕り物がつづくので、町方ではあれほどのお人に褒美がでずご加増もないのはおかしい、あまりといえばあまりなことだ、公儀もよくない、なんぞご褒美がありそうなものだ、もっともご転役では跡をやるものがあるまい、長くいまのお役にとどまっていてほしいものだ、と口々に噂している。
お役人のほうでは、とかく長谷川を憎んで、あれこれいっているよし。いずれ長谷川は一奇物だとの噂がもっぱらだ。
一、火事場見廻りの太田運八郎(資同 すけあつ 3000石)は利運(自己主張が強い)の者のよし。
このたび、定火消が郭の外防に出たについて、見廻り出会い相談の節、筆頭の堀孫十郎(不明)と運八郎が口論におよび、孫十郎が悪口を口にしたので、運八郎は切って捨てると脇差を抜いた。座中から大勢が取りかかって運八郎をなだめ、孫十郎を脇へ引かせたとのこと。その後、孫十郎は主張を引き下げたよし。運八郎は引き下がらず、「おれは引かぬ」と自説の優勢さをいいつのっているよし。もっとも論争の利は運八郎のほうにあるやにいわれているよし。
【ちゅうすけ注:】
この仁はのちに、長谷川平蔵の冬場の助役(すけやく)として火
盗改メに任じられたとき、平蔵に教え乞うたら、「そっちはそっち
でおやりなさい。こっちはこっちでやるから」と言われたと、上層部
へ泣き言訴えた。
このことについてかつて、 『夕刊フジ』の連載コラムに[部下を
信頼する]と題した私見を記した。
榎本武揚(たけあき)は、オランダで海陸兵制を学んで帰国、幕府の海軍奉行として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった人物として知られている。
武揚と行をともにした陸軍総裁・松平太郎のほうはさほど有名ではない。
五稜郭の開城後、東京へ護送・幽閉され、のち恩赦。
ものの本には「性格は豪放にして機知に富み、意表をつく企画を考え、ものごとにこだわらなかった」とある。
長谷川平蔵の再来みたいだと思っていたら、同名の息子・太郎が大正9年(1920)に出版した名著『江戸時代制度の研究』にこう書いた。
江戸幕府270年を通じて200人近くいた火付盗賊改メで「英才ぶりが広く知られているのは長谷川平蔵、中山勘解由(かげゆ)、太田運八郎資統(すけのり)」。
平蔵をいの一番に据えてたのだ。
中山勘解由(3500石)は平蔵より100年むかしの人。
エビ責めの拷問(ごうもん)を考案したり、不良旗本・白柄(しらつか)組と対抗した奴(やっこ)組をこっぴどく取り締まった。
太田運八郎(3000石)のことは太田道潅の末、としか調べがついていない。
父・資同(30歳)が平蔵(47歳)の助役に発令され、教えを乞うたら、
「本役と助役とは競争しあってこそお役目が果たせるというもの。こっちはこっちでやるから、そっちはそっちでおやりになるんですな」
とけんもほろろにあしらわれ、火盗改メを管轄している若年寄へ泣き言を持ちこんだと記録にある。
記録だけを読むと、せっかく着任の挨拶をしにきた父のほうの運八郎を平蔵がいじめているみたに思える。
が、事情がわかると平蔵の処置もうなずける。
その1。運八郎は若年寄の執務室へ呼ばれたとき、てっきり西の丸の目付(めつけ)に任命されるものと期待して行ったが、先手の組頭だったのでがっくりきた、とまわりへふれまわした。
目付は1000石高、先手組頭は1500石高の役職手当。
ふつうなら後者に発令されるのを喜ぶのに、家禄が3000石で役職手当を超えているために1石もつかない。
そこで彼は、目付を出世コースとして先手組頭より優先させたのだ。先手組頭の平蔵にはカチンくる。
その2。運八郎が就任した先手鉄砲(つつ)11番の組は、それまでの50年(600ヶ月)のあいだに火盗改メに104ヶ月も従事しており、平蔵の組の144ヶ月に次いで経験豊富な組下ぞろい。
盗人逮捕のコツは「おれに教えを乞うより、組の与力同心に聞いてやってこそ、彼らも働き甲斐を感じるというもの」と平蔵は言いたかった。
組の与力同心をやる気にさせるのが組頭の最大の仕事の一つだ。その仕事ぶりを認めてやり、誉めあげ、信頼されていると感じさせることだ。
「自分が望んでいたポストはここではなかった」などと口にしていることを耳にした部下は、
「なんだ、こいつ」
と仕える気もなえ、
「長谷川どのはよくぞたしなめてくだされた」
と思う。
一、石川島は長谷川平蔵の担当で直かに計画しているよし。
江戸払いや江戸お構い者でも置くとのこと。石川(大隅守正勲(まさよし 4000石 38歳)の家作も長谷川平蔵が買うだろう。鮫ヶ橋で家が売りにでたとき、ほかの者が20両(320万円)前後の値をつけたあとにやってきた長谷川平蔵は、2分(8万円)上積みして買ってしまった。古家までを買いあるいて何にするのだと噂されているよし。
【ちゅうすけ注:】
人足寄場の宿舎として解体して運び、プレハプ工法式に早期に
組み立てた。
官僚には珍しく機転・応用のきく柔軟な頭脳の持ち主。
一、森山源五郎(孝盛 たかもり 目付)は先日中、引き込んでおり、ようやく出勤したところ、その節、供を減らす書付が出ていたときなので、供を大幅に減らし、歩いて桜田見附を通ると、下座見が拍子木を2つ打ったので、ふだん目付は膝直しばかりで、拍子木は1つ打つのだが、歩行のときは2つ打つことになっているとのこと。
それで見附番の番頭が刀を手に提げて縁側まで出てきたが、どっちへお辞儀をしていいかわからないので、すごすごと上へ引き返したと。
それからこの番頭がお辞儀をしなかったことを咎めたところ、番頭がいうには、目付はただいま馬でお通りになった。たとえ駕籠でもお供のぐあいでどなたか分かるのだが、きょうは徒士でお歩きになった、もともと面躰を存じあげていないし、もちろん下座見も存じてはいない。その上、供を減らすようにとの書付が出ていることも不案内で知らなかったので、お辞儀をしなかったことはけっしてこっちの不調法とはきめつけられないといいはり、一向に謝ろうとしない。それで源五郎の負けで、またまた引き込んでしまったよしの沙汰。
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コメント
お、Who's Who が日刊ココログに紹介されるんですか。それはすばらしい。
より多くの鬼平ファンがここにつどうわけですね。
しかし、心配がひとつ..多くのファンからのアクセスがあるのはいいことですが、いまのレベルをぜったいに落としてほしくないです。
その点は、ちゅすけお師匠、大丈夫ですね?
投稿: 文くばり丈太 | 2009.08.21 05:35
>文くばり丈太 さま
いつも、なにかとおはげまし、ありがとうございます。
日刊ココログに紹介されます件は、ページ・アクセスが43万を超えておりますし、この4年間、自分の都合では1日も休むことなくつづけており、80歳近い老体ということで、とうぜん、いつかは紹介されるとは思っていました。
nifty愛用は、ホームページ時代からかぞえると、15年をはるかに超えていますし。
ご忠告、肝に銘じて、レベルを守っていきますから、あいかわりませず、ご声援くださいますよう。
投稿: ちゅうすけ | 2009.08.21 08:46