京都町奉行・備中守宣雄の死
平蔵宣以(のぷため いわゆる鬼平)の没後4年---寛政11年(1799)12月20日に、嫡男・平蔵宣義(のぶのり 30歳 辰蔵の家督後の継承名)が幕府に提出した[先書祖]を、にらんでいる。
(平蔵宣義(辰蔵)が上呈した[先祖書]の表紙)
[先祖書]は、先の老中首座・松平定信の発案で企画されたもので、お目見(みえ)以上の幕臣、および大名に提出が下達されていた。
12月20日は、締め切りぎりぎりともいえる期日であった。
5,200余家から上提された[先祖書]は、編纂役人たちの照合をへて、13,年後の文化9年(1812)に完成をみた。
【参照】『寛政重修諸家譜』
にらんでいるのは、『寛政譜』の基となった[先祖書]のほうである。
その[先祖書]は、長谷川本家の末裔である長谷川雅敏氏が国立公文書館からコピーしてきたものが、研究家・釣 洋一氏iにわたり、氏がワープロ活字化したのと、原文のコピーをいただき、おりにふれてにらんできた。
いや、〔にらんでいる〕のは、もっぱら、ワープロ活字化されたほうである。
それの、八代目・平蔵宣以の冒頭部分。
ブログでは、銕三郎(てつさぶろう 27歳)は京都にいる。
在・京都の条をアップにしてみよう。
1行目の最初の5文字は、前の事項のしっぽだから無視。
父・備中守宣雄、京都(西)町奉行を相勤めておりました節、
安永2年(1773)癸巳(みすのとみ)6月21日、京都のご役宅で卒、
同年9月8日、父が願いおきましたとおり、跡目菊之間
(老中)板倉佐州(佐渡守勝清 68歳 上野国安中藩主 2万石)より
小普請支配・長田備中守の組へ入ると伝えられた。
【ちゅうすけ注】宣雄の歿年月日について別の日にふれるので、いまは、ここには立ちどまらない。
小普請支配・長田備中守も、管見では『寛政譜』に見あたらない。
長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の誤記とみる。
眸(め)を凝らしているのは、
(父が願いおきましたとおり、跡目---)
この1行である。
いつ、願いおいたのであろう?
病床にあり、回復がままならぬと自覚し、急遽、継飛脚便を発したのであろうか。
そのとき、備中守宣雄の胸中には、25年前、病弱だった6代目の従兄・宣尹(のぶただ 没年35歳)の死の前後の末期(まつご)継嗣の手続きのあわただしさ---というより、一種の偽装がよみがえっていたろうか。
【参照】2007年4月14日~[寛政重修l諸家譜] (14) (15) (16)(17) (18)
2007年5月2日[柳営補任〕の誤植
それで、まだ生きているうちに、願書を江戸へ送ったのかもしれない。
あるいは、死の日時を糊塗し、あたかも生前に願い出たようにしたか。
宣雄が病床にあった期間はどれほどであっか。
病名はなんであったか。
記録はまったくのこされていない。
明和19年(1772)10月15日に京都西町奉行を拝命し、8ヶ月と7日ばかりの、短すぎた病死であった。
備中守宣雄までの京都町奉行で、これほど勤務年月が短かった奉行はいない。
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