貴志氏(3)
しばらく待っても、里貴(りき 30歳がらみ)があらわれないので、平蔵宣以(のぶため 28歳)は、ごろりと横になり、しんと静まりかえった部屋で、手枕のまま表の雑音を聞いているうちに、つい、仮眠してしまったらしい。
物音に目をさまし、見上げると、里貴がいた。
冷風がそよぐ堀傍ぞいを、よほど急いできたらしく、白い頬が紅潮している。
真向いにすわったとき、衿元からかすかに、白粉のそれとはちがう躰臭がもれた。
起きなおった平蔵が、
「よいのかな、店のほうは?」
「気分がすぐれないといいわけし、馴れている女中頭にまかせてきましたから---」
「里貴を目あての客が失望するのではないか?」
「ご冗談ばっかり---」
戸ぶくろから取り出した紙葉を平蔵の前に置いた。
土岐氏の系図らしかった。
「困った。拙iには、そのようなものを読みこなす素養がない」
「鷲巣(わしのす)さまにかかわりがございます」
「そういわれても---」
「いま、小十人頭をなさっている式部清貞(きよさだ 42歳 1000石)さまの祖父・淡路守清勝(きよかつ 享年53歳=享保12)さまが家名をおたてになった鷲巣家は、じつは、土岐家の姫が紀伊家のお3代・綱教(つなのり)さまの侍女となって鷲巣を名乗られ、ご養子・清勝さまを始祖にお立てになったのでございます」
「手っとりばやくいうと、紀州侯が土岐家の流れをくむ姫に手をつけたが、子をなさなかったということだな」
平蔵は、紀州家のことに首をつっこむ気はさらさらない。
ただ、里貴が雇われ女将をやっている茶寮〔貴志〕が、なんのためにあの場所に建てられたかに、疑義をいだいただけである。
「きょうは着替えないのか?」
「鷲巣さまのお話がすむまでは、着替えるわけにはまいりません」
「それならそれでいいが、鷲巣どのが、里貴にどうかかわるのだ?」
「小十人頭・清貞さまに5人の弟ごがいらっしゃいます。うち、お2方が清水中納言重好(しげよし)卿にお仕えになっていらっしゃいます」
「ふむ」
「お兄さまを利兵衛清胤(きよたね 700石)さま、お若いほうを伊織清好(きよよし 500石)さまと申されます」
「そこまでは、わかった。で、里貴は---?」
「お弟ごの清好さまに呼ばれて紀州から参った藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)の妻でございました」
「やっと、目の前の里貴にたどりついた」
「おひやかしになるのでしたら、もう、お話しいたしません」
「悪かった。藪どのは、いつ、お亡くなりになったのかな?」
「6年前でございます」
「そのとき、里貴はいくつであったのかな?」
「訊問がお上手でございますこと」
「火盗改メ方・平蔵宣雄(のぶお)、直伝の尋問法でな」
「お答えしないと、拷問なさいますか?」
「いや、長谷川式は、拷問などしないで白状させる」
「謎めいたところのある女性(にょしょう)のほうがお好みなのでは---?」
「おなごは謎だらけの存在だ」
「男衆だって謎だらけでございます」
「解ける謎は、解いてみたい」
「拷問をなさってみては---?」
「お望みかな?」
「女囚をお責(せ)めになるときは、単衣(ひとえ)を着せた上で行うのでございましょう? 着替えてきます」
「その前に、田沼侯の屋敷に入ったのは、藪どのが亡じられてすぐかな」
「そのことも、お責めになったときに---」
里貴は、嫣然とした微笑みをのこし、奥の間へ消えた。
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