三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇
「西ノ丸・書院番の4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれ)郷右衛門勝孟(かつたけ 53歳 800俵)どのへ申し送り? 聞いてはおりませぬぞ」
案の定、小普請9の組の与頭・朝比奈織部昌章(まさとし 46歳 500石)がちょっと不機嫌な目つきで言った。
もっとも、風邪ぎみで休仕しているから鼻にこもった声とはいえ、さほど気を悪くはしていないのかもしれない。
平蔵が、2日前の小普請支配お逢対(あいたい)日に、長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)に訊かれたので、出仕するなら「西ノ丸・書院番の4の組の水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 52歳 980石)さまの組下---と希望を出した。
そのとき、与頭同士で通じさせておく、と約してくれた。
「与頭どの。お風邪でのお休みは、何時からですか?」
「昨日から---そうか。それでは申し送りを聞きようもないな。しかし、長田支配さまの今度の書役(しょやく)は筆づかいはたしかに流麗じゃが、仕事のほうがとろくてな」
「ご快癒なされてご登城なされば、書き留めが待ちわびておりましょう」
「さようであってほしいものよ」
それからしばらく、他愛もない世間話をし、辞したときに日は暮れていた。
朝比奈与頭は、提灯を貸そうか、とは訊かなかった。
あたりは武家屋敷と寺院つづきで、灯を購うこともできない。
このままではこころもとないので、どこかで提灯を借りようとおもったが、知り合いの家が思いつかなかった。
運慶橋をわたったところで、茶寮〔貴志〕が頭に浮かんだ。
武家屋敷ばかりで道が暗い小川町から一橋通りへ出ると、覚えのあるあたりで灯がもれていた。
(よかった、閉めていなかった)
寄ってみると、灯は客がでてくるのを待っていた駕篭の提灯であった。
玄関に出てきた里貴(りき 30歳がらみ)と、ばったりの感じになった。
「おや、どうなさいました?」
灯を借りようかとおもって---告げると、
「いま、帰るところです。すぐ、そこの三河町の御宿(みしゃく)稲荷の脇ですから、いっしょにいらっしゃってくだされば、うちのをお貸しできます」
里貴が乗りこんで動きだした駕篭の脇につきながら、
「ほんのわずかな距離なのに、駕篭とは?」
「いいえ。火除け地は真っ暗で、おんなの一人歩きは危いのです。それで、帰りはかならず、〔駕篭徳〕さんに、こうして、迎えにきてもらっていますの」
「なるほど。夜の火除け地は、男でも危険だからな」
話しているうちに、御宿稲荷の前に着いた。
駕篭を帰したが、〔駕篭徳〕は、半丁と離れていない。
里貴が解錠しているあいだ、帰っていく駕篭の灯を目で追い、
(権七のところの加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)が〔駕篭徳〕の舁ぎ手に化けて詰めているのは、あそこか)
【参照】2010年1月8日[府内板[化粧(けわい)やー読みうり] (1)
「お待たせいたしました。長谷川さま、どうぞ、お入りくださいませ」
「いや。灯をかりるだけだから---」
「それはそうでございますが、戸をあけたままだと、冷たい風が入りこんできて、部屋が冷えます」
仕方なく、戸を閉めざるをえなかった。
(さすがの女将だ。店の前では駕篭屋がいたからおれの名を呼ばなかったが、誰も聞く者がいないところでは、親しそうに名で呼びかける)
「長谷川さま。夕餉(ゆうげ)は、まだでございましょう? なにもございませんが、ごいっしょにいかがです?」
平蔵がためらっていると、背中に手をまわして押しあげ、表戸にさっさと心張棒(しんばりぼう)をかってしまった。
湯気をたてている鉄瓶が火鉢にのってい、部屋は暖められていた。
「昼間は、近くの老婆が留守番していて、夕餉をつくってくれ、私が帰ってくる時刻に消えますの」
「さ、お箸をおとりください。私、おなかがぺこぺこ---」
平蔵の両肩を押しさげた。
「毎晩、こうなのかな?」
「だって、私のほかには、誰もいませんもの。猫も飼っておりません」
「それにしては、けっこうなお住まいだ」
「火事のあとに建った家ですから、まだ木の匂いがしていますでしょう?」
一人膳に差しむかいなので、顔と顔がくっつきそうなほど近い。
鉢に盛られている大根や里芋の煮物を、里貴は自分の箸できれいに2つに割ってから、
「あっ、お酒、忘れていました。冷やでおよろしいでしょう?」
小椀になみなみと注がれたのを手わたし、
「お座敷着のままなので、着替えてまいります。お一人にしておいて申しわけございませんが、お酒をめしあがっていてくださいませ」
次の間で帯を解く絹ずれの音、衣裳箪笥を開け閉めし、そのあと、布団を延べているらしい気配があり、
(いま、帰らないと、困ったことになりそうだ)
思いながら、尻が畳にくっついたようで、、平蔵は立ちそびれていた。
(歌麿『名所腰掛』の内 里貴のイメージ)
里貴は、なんと、寝着としかおもえない、淡いくちなし色に白い花柄を抜いたものに着替えてあらわれた。
緋色のしごき帯を、わざとなのか、そういうしめかたが好きなのか、ゆるゆるに巻き、前結びにして、襟元が広くあいていた。
くちなし色の寝着が白い肌をより引きたててみせる。
見方によっては、素肌のようでもある。
「はしたない着方でごめんなさい。お座敷着だと、躰のあちこちを一日中、何本もの紐でしめつけておりますから、家では縛られるのがいやなのです。素裸でいることだってあるのでございますよ」
【ちゅうすけ注】三河町2丁目(現・千代田区内神田1丁目6)にある御宿(しゃく)稲荷は、『鬼平犯科帳』巻22長篇[迷路]p113 新装版p108 で、平蔵とおまさが待ち合わせの場所---御宿(しく)稲荷として登場。
【参考】御宿稲荷神社
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