与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)(3)
「銕(てつ)さま。驚きました」
部屋へ入ってくるなり、里貴(りき 29歳)が、掌にひろげた懐紙を差し出した。
〔銕さま〕という呼びかけは、寝間でだけ---とのとり決めを、あわてたせいか、忘れてしまっている。
どうした? と顔を向けた平蔵(へいぞう 28歳)に、
「牟礼(むれい 郷右衛門勝孟 かつたけ 54歳)さまからのおこころづけには、お2人のお昼餉(ひるげ)代を超えるほどのお足が包まれておりました」
(爺さんめ、味なことを---)
「折角だから、もらって、茶寮のみんなで分けたらどうかな?」
「いいえ。それはなりません」
「なぜだ? こころづけは、多いほうが、みんな喜ぶであろう」
「癖になるばかりではありません。少ないお客さまに粗末な態度で接するようにもなります」
茶寮〔貴志〕では、こころづけは、だれが受けても、それ用の箱へ入れ、月末に等しく割って分けることにしているのだと説明した。
こころづけを怠った客の分は、食事代の5分(ぶ 5%)を店がその箱へ入れる。
この店を開いて以来の決まりごとだと、里貴が力んで言った。
書院番の与頭ともなれば、日もちのするかつお節などは他所へまわしきれないほどとどいているに違いない。
「わかった。こうしてくれるか」
明朝、板場の者が日本橋北詰の魚市に仕入れに行ったとき、ついでに、新鮮な鯛を一枚買ってもらいたい。
(日本橋魚市 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
2朱銀(2万円)を里貴にわたす。
「鯛の代金の釣りは、包丁人への手間賃だ」
その鯛を包丁人の一人に持たせ、里貴とともに、牛込の軽子坂をのぼりきり、道なりに右に折れ、万昌院という寺の前をすぎて突きあたったら左に曲がった先の牟礼家へとどけてほしい。
(右下青○=牟礼家 右最下の通り=神楽坂肴町 尾張屋板)
「あくまくでも、〔貴志〕からのお礼と告げ、料理人を伴ってきているので、ご迷惑でなければこの者に、刺身と焼きものと鯛めしを作らせる---ともちかけてみてくれるか」
「時刻は?」
「七ッ(午後4時)の下城であろうから、そのころから調理を始められるように訪ねてくれるか」
「そのように---」
「しかし、牟礼どのは座をお外しにならなかったから、こころずけは家で包んでいたのだな」
「招待されたと見せかけて、招待をなさるおつもりだったのですね」
「いや。諭(さと)されたのであろうよ。まだ出仕もしていない若い者が、与(くみ 組)頭などを招待するとはなにごとかと」
「そういうものでございますか?」
「ただ飯を喜ぶ上役のほうが多かろうがな」
「これから、気をつけて見きわめておきます」
女中頭・お粂(くめ 32歳)が襖の外から呼んだ。
立っていった里貴との会話が漏れ聞こえた。
「〔駕篭徳〕の舁き手が、押しつけられたといって駕篭賃を差し出しています」
「まあ。駕篭賃まで---」
平蔵が声をかける。
「女将どの。その〔駕篭徳〕の舁き手に、牟礼家までの道筋を描いてもらっておきなさい」
★ ★ ★
ニュースとしては、若干、出遅れた恨みはあるが、一刻争うネタでもありませんし、鬼平ファンとしては知っておきたい事実なので。
SBS学苑パルシェ(静岡駅ビル)の[鬼平クラス]でともに学んでいる八木忠由さんの提供による2009年12月18日の静岡新聞の記事。
静岡県焼津市小川(こがわ)の曹洞宗寺院信香院(高田路久住職)はこのほど、8月の駿河湾の地震で倒壊した開基で駿河小川城主の長谷川正長公(1535~1572)の墓石を再建した。同地震では、ほかにも数基の墓石が倒れたり、ずれたりすル被害があったが、正長公の墓の再建で院内の補修はほぼ完了した。
小川の豪族に生まれた正長公は駿河小川城主当時、暴風雨で大破した仏教道場に新たな堂を建立し、長谷山信香院と名付けた。この記録を基に同院は正長公を開基としている。(中略)
正長公は今川家に仕えた後、徳川家康の家臣となり、家康唯一の敗戦といわれる三方原の戦で戦死した、3人の子は家康に旗本に取り立てられ、分家した次男宣次の7代目宣以は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルとなった。
【参考】2007年6月25日[田中城しのぶ草] (11)
2007年4月6日[寛政重修諸家譜] (2)
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