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2010.03.04

ちゅうすけのひとり言(52)

長谷川平蔵の資料しらべで、ずっと懸案になっていることがいくつかあり、その一つが、三方ヶ原の合戦に、徳川方の武将の一人として戦い、討ち死にした長谷川紀伊(き)守正長(33歳)とその弟・藤九郎(19歳)が、どの武将の軍に配されていて、どの段階で戦死したかの資料さがしである。

そのことは、各地での〔鬼平]クラスでも言及してきたから、静岡のクラスの安池さんも気にかけていてくださっていたらしく、三方ヶ原の戦記にふれた新著を2冊、貸してくださった。

_150その一は、岩井良平さん『三方原の戦いと小幡赤武者隊』(文芸社 2008.2.15 \1700)。
著者は、国峰小幡系のご子孫らしく、武田軍の側から三方原の合戦をながめている。

在野の研究者らしく、現地を丹念に取材しているので、同行しているような気分になるのだが、残念ながら、長谷川紀伊守とその弟に触れた文章はきわめて短い。

三方ヶ原に「精鎮塚(しょうちんづか)」と呼ばれていた碑(いしぶみ)があって、徳川側の戦没者の鎮魂のためのものと言い伝えられてきたが、開発のために邪魔になってきたので、除去の話がおきたとき、地元の本乗寺(浜松市三方)の住職・青嶋淳雄師が、長谷川家の子孫ということで、碑を同寺の境内へ移して供養しているという。

それで、クラスとしては、5月の遠出先の一つに、碑に詣で、青嶋師の講話を聴くことを計画している。

もう一冊は、浜松市在住の郷土史家・小楠(おぐす)和正さん『浜松城時代の徳川家康の研究』(発行元も 2009.12.18 \2300.)である。
小楠さんの旧著『検証・三方ヶ原合戦』はかつて紹介したことがあるし、長谷川紀伊守の戦死の様子についての文通も当ブログで公開している。
その結果、諸史書をあたったが判明しないとのことであった。

参照】2008年お月13日[ちゅうすけのひとり言] (14

こんどの新著では、三方ヶ原の合戦では、徳川方の重要な諸将は、ひとりも戦死していないとの結論をだしている。

酒井忠次石川数正本多忠勝榊原康政大久保忠世らの名をあげ、さらに、大久保忠佐大久保忠隣松平甚太郎家忠本多広高本多作左衛門重次柴田康次天野康景平岩親吉などおもな武将たちのほとんどは生還している---として、長谷川紀伊守正長などは新参者で、重きはおかれていなかったといわんばかりの文章である。

たしかに、新参ではあるが、すくなくとも、小川(こがわ)城主であり、田中城の城主もつとめ、浜松へきたときには、20騎をこす配下をともなっていたとおもえる。

三方ヶ原では、酒井忠次の軍に組み込まれていたか、石川数正の軍であったか、これからの研究により、それがあきらかになることを切望している。

参考】三方ヶ原の両軍の陣構え 岩井良平『三方原の戦いと小幡赤武者隊』より 部分

_360

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