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2010.05.14

日光山参詣のこと発表

(安永4年(1775)4月1日)月次の拝賀に同じ」 これよりさき三家に。(将軍・家治 39歳)明年四月日光山に詣でさせ給ふべしとの御旨を。(老中首座)松平右近将監武元(たけちか 55歳 上野・館林藩主 6万1000石)演説し、群臣にも同じく伝ふ。紀伊宰相治貞卿(47歳)。尾張中納言治興卿(20歳)。をば別に御座所にめして。予参に候せらるべしと仰下さる)

徳川実紀』の記述である(括弧内はちゅうすけの補記)。

将軍の日光参詣は、前々将軍・吉宗がおこなって以来、費用のこともあり、絶えていた。

それに着目したのが、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(人物文庫)である。

参照】2006年12月28日[佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』]

上記【参照】の時には、田沼主殿頭意次(おきつぐ)の失脚前後の場面を引用したが、ここでは、asou さんのコメントにもあった、家治の日光参詣を実現するための費用20万両(約32億円)の捻出に苦心するあたりを---。

田沼はニ年前、五千石を加増されて側用人にすすめられ、ニ代にわたる将軍親子の恩顧に こたえようと決意した。思案をめぐらして家治の日光東照宮参詣を思いつき、二十万両の費用を捻出させるため、後輩の水野豊後守忠友(ただとも 38歳=明和5年 8000石)を勝手掛若年寄に転出させた。

紆余曲折はあったが、冒頭の松平老中首座の発表となった。

当ブログでは、長谷川家から隠棲する下僕の太作(たさく)に竹節(ちくせつ)人参を栽培させるために、日光へおもむかせた。

参照】2010年2月11日~[日光への旅] () () () () 

参考】日光東照宮ホームページ

同行した井関録之助(ろくのすけ 25歳=当時)が帰府し、平蔵(へいぞう 29歳)に、

さんも、ぜひ、おのれの目で見るといい。当時の徳川どのの財力のほどがしのばれますよ」
「ご老職・田沼主殿頭(意次 おきつぐ 55歳)侯が、お上の参詣の費用づくりをなさっておられるようだ。3年先との風説がもっぱらだが、それまでに書院番士として出仕し、供に加えていただければ、拝観できよう」
「ぜひ、選ばれるように動きなされ」

録之助のすすめのとおり、平蔵は奉供(とも)に選ばれたか、気になった。

寛政重修l諸家譜』には、選ばれた幕臣たちは、さも名誉を得たように記している。
たとえば、これまで顔をみせた仁でいうと、安永2年(1773)9月8日にいっしょに遺跡相続をした夏目藤四郎信政(のぶまさ 22歳=当時 300俵)は、翌年、本城の小姓組番士として出仕したが、『寛政譜』はこう書かれている。

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しかるに、平蔵の項Iは、そのことに触れていない。
平蔵が組入れられた西丸・書院番第4の番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 51歳=安永4年 3500石)の家譜にも、与(くみ)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 55歳=同 800俵)にもその記録がない。

参照】水谷出羽守勝久の個人譜
牟礼郷右衛門勝孟の個人譜

ということは、この組ははずされたかとおもったが、西丸の書院番頭のすべてに、記述かげなかった。

気がついて、安永5年4月13日、将軍門出をあらためたら、家基(いえもと15歳=安永5年)も、一橋の民部卿治済(はるさだ 25歳=同)も江戸警備のために残されていたのである。

ということで、西丸勤務組は全員、残留とわかった。
たったそれだけのことを得心するのに、数日も要したのだから、ものを書くということは、たいへんに骨がおれる。

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