藤次郎の難事(2)
奈良奉行に在職のまま逝った菅沼和泉守定亨(さだゆき 享年49歳 20250石)は、先手・弓の2番手組頭からその職へ転じていた。
弓の2番手組頭の実質の後任は、平蔵(へいぞう 33歳)の大伯父にあたる、本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 70歳 1450石)だが、この年---安永7年'(1778)2月24日に持弓頭へ栄転していた。
太郎兵衛正直のあとがまの組頭は、小姓頭取から昇格した贄'(にえ)越前守正寿(まさとし 40歳 300石)であった。
【ちゅうすけ注】この贄正寿は、平蔵宣以についで興味をもっている幕臣で、余命があれば、火盗改メとしての業績や堺奉行時代の市政を調べたいと思っている偉材である。
平蔵宣以---いわゆる鬼平が、弓の2番手の組頭および火盗改メとして最高の実績をあげえたのは、その10年前に5年間、贄'が火盗改メとして組下を鍛えておいたからともおもっているほどである。
もっとも、安永7年には、贄組頭はまだ火盗改メではなかったから、組は本城の蓮池、平川口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門の警備に交替であたっていた。
翌日、登城した平蔵は、顔なじみの同朋(どうぼう 茶坊主)に小遣いをつかませ、贄組の勤務日と受け持ちの門を調べさせた。
運よく、紅葉山下門を守っていると分かったので、筆頭与力・脇屋清吉(きよよし 50歳)あての書状に---かつて役宅につめておられた小石川吹上の菅沼邸のお顔見知りの用人なりだれかにお問いあわせいただきたいのだが、奈良へお連れになった佐和(さわ 34歳)と申す女性(にょしょう)が戻ってきているかどうか、人をやっておたしかめてただきたい---と認(したた)めてもたせた。
脇屋筆頭与力から、調べがついたと伝えてきた。
久しぶりでもあり、新しい組頭の風評もうがいたいからと、山下門で落ちあい、鍛冶橋下にもやりながら待っていた黒舟に乗りこんだ。
漕ぎ手に聞かれてもいいような馬鹿ばなしをつづけているうちに、〔季四〕の舟着きに寄せた。
出迎えた里貴(りき 34歳)が、
「お久しぶりでございます、脇屋さま。その節はおこころづかい、ありがとうございました」
姓を呼びかけてのあいさつに、脇屋与力は、まぶたをあげて大げさに喜んで見せた。
温顔でまぶたをいつもおろしているだけに、大げさな顔のつくりにしないと、そう見えないことをこころえているのだ。
「一ッ橋から、いつ、こちらへ?」
【参照】2010年5月5日[筆頭与力・脇屋清助(きよよし)] (1) (2)
「両親を看(み)とるために、しばらく紀州へ帰っておりました。夏先きにこちらではじめさせていただきましたが、
お客さまのお名帳を前の店に置いたまま辞めてしまいましたので、ご案内をどちらさまへも差しあげることができず、たいへんに失礼いたしました」
部屋までのあいだに、手ぎわよく説明をするので、平蔵は、里貴の頭のよさ、女将としての客あしらいのたしかさをあらためて認識した。
盃の応酬がすむと、里貴が座をはずしたのを機に、
「前の前の組頭---菅沼さまのことですが、佐和という女性(にょしょう)は、ご不幸のあと、奈良から大塚吹上のお屋敷へ戻ったものの、お世継ということで、久世(丹後守広民 ひろたみ 3000石 長崎奉行)さまのご3男で9歳の又吉(またきち)さまの養子ばなしがすすみはじめると、暇を願いでたとの、ご用人の話でした}
「又吉さまは、9歳と申されましたか?」
「ご長女の婿---ということで」
「婿どの---?」
「ご継室のお子で、たしか14歳。ご先室さまとのあいだにはお子がありませんでした」
(14歳の許嫁(いいなづけ)といえば、もうほとんど、おんなといってよいが、婿どのが9歳とは---。いかなる初夜になるものか)
幼い夫妻の床入りを想像している自分を平蔵は叱るとともに、藤次郎(とうじろう 13歳=当時)と32歳(=当時)の佐和との接合の情景をよみがえらせた。
平蔵の胸のうちを読んだかのように、酌にあらわれていた里貴が、
「雛人形のように可愛らしいお組みあわせですこと」
(ちがうんだ。同じ菅沼でも、藤次郎はおれの剣の教え子で、弟のような者だ。又吉とは事情が異なる。ま、あとで、藤ノ棚の家では語ればよい)
話題を、贄組頭のやりようへ移した。
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コメント
いよいよ贄越前守正寿の登場ですね。この仁についての史料はきわめて少ないとおもいます。紀州藩士時代に吉宗の小姓の家柄の出ですね。どんな贄正寿が描かれるか、期待しています。
投稿: 左兵衛佐 | 2010.11.20 05:11
>左兵衛佐 さん
贄安芸守正寿をご存じだったとは!
火盗改メの組頭としてとか、堺奉行としてではなく、祖が紀州藩の小姓組番士をしていたこともご承知なんですね。
ぼくはいま調べているところです。結果は2週間ほどのちにアップできそうですが、まだまだ史料を探す必要がありそうです。
もし、これを読めという史料がありましたら、ご教示ください。
投稿: ちゅうすけ | 2010.11.20 10:05