中屋敷の於佳慈(4)
「お忘れではなかったのですね」
於佳慈(かじ 31歳)が、ぞっとするほど濃艶な目で平蔵(へいぞう 37歳)を見た。
(相当に酔いがまわってきているようだ)
ときどき、呂律(ろれつ)がおかしくなりながらも、於佳慈が打ちあけたところをまとめると、生まれたのは南深川の相川町の漁師の家であった。
6代ほど前の祖が、紀州の田辺あたりから移住してきたという。
移住は藩の要請で、藩邸へ魚介類を納めるようにいわれ、10t数戸がいまでも相川町にかたまっていた。
そんななかで、見目(みめ)のよかったむすめたちは、藩邸なり重役の屋敷へ奉公にあがった。
於佳慈の母親も16歳で、田沼市左衛門意誠(おきのぶ 享年53歳=安永2年)が一橋の用人であったころ、小川町広小路裏町の田沼邸へあがっていた。
とうぜんのように、主(あるじ)の手がつき、於佳慈を宿したが、継嗣・専助(せんすけ 10歳=当時 のちの能登守)の産みおんなのはげしい嫉妬にあい、屋敷をさがって深川の実家で産んだ。
そんなわけで、幕府へ届けられていたか、どうか。
ただ、田沼家はよくしてくれ、そのまま相川町で育ったが、嫁入りのときにも道具をととのえてくれた。
夫は、紀州藩邸ほか大藩の奥向きへ出入りの小間物問屋の跡継ぎであったが、嫁して3年目に病死し、弟の妾になれば残れるといわれたが、蔭の父・能登守に相談したところ、いまの殿へ話が通じたのだと。
ちょうど、里貴(りき 38歳)が29歳のころに一橋北の茶寮〔貴志〕をまかされたので、後釜の形になり、木挽町(こびきちょう)のここへ住みこむことになって丸7年になる。
(そういえば、里貴が〔貴志〕をまかされたのも、一橋家などの風聞を集めるためであったような---)
【参照】2010月1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (1) (2)
里貴が紀州の生家へ両親の介護に帰り、再度入府、また躰をあわせるようになって4年近くになった。
どちらも、お互いの躰に飽きていないどころか、ますます深入りしている。
「於佳慈さまのいきさつ、初めてうかがいました。能登(守)さまでございましたか。そういわれてもみると、やさしげな細いお目許(もと)が田沼家の血筋からだったのでございますね」
里貴のお世辞にもかかわらず、於佳慈の双眸(りょうめ)は、深酔いのそれで、とろんとしていた。
「銕(てつ)さま。少々、お席をおはずにしになって---」
「だめ。これから平(へい)さまをあいだに、川の字に雑魚寝するんだから---」
於佳慈が里貴にしなだれかかった。
里貴が目で平蔵を追いだし、お佳慈をよこたえておき、寝床を延べ、帯をとかせ、着物を脱がせた。
襖の外にいた平蔵を呼び入れ、わざとあしのほうを持たさせ、寝床へ移した。
それでも於佳慈は、脇を手さぐりし、
「平さんも、お脱ぎなさい」
里貴が於佳慈の湯文字をばらりと開き、下腹をさらし、平蔵に向かって舌をちろりとみせ、上布団をかけた。
於佳慈は、その上掛けを抱きしめ、露出した太股ではさみ、腰をすりつけた。
人差し指を唇にあてた里貴が目で平蔵を襖の外へいざない、廊下で女中に声をかけた。
「お佳慈さまは、よくお眠みですから、2刻(4時間)ばかり、そっとしておいておあげください」
門外で、
「銕さま。漁師村育ちのむすめの本性、この場かぎりで、どんなことがあっても誰にもお洩らしになってはなりません。お洩らしになると、於佳慈さまは、銕さまに陥穽をおしかけになります」
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