長谷川家の祖の屋敷跡を探訪
駿河の小川(こがわ)湊(現・静岡県焼津市小川)が、鬼平こと長谷川平蔵の祖先にあたる豪族・次郎左衛門尉政宣の活躍の本拠地であったことは、たびたび触れた。
【参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院 ] (1) (2) (3) (4) (5)
最近なにかで、法栄長者こと長谷川次郎左衛門尉政宣の屋敷は、焼津市三ヶ名(さんがみょう)町の不動院の前に標識が建ったいるという記事を目にした。
愛用している昭文社『街ごとまっぷ 静岡県都市地図』で探すと、JR東海道線・西焼津駅から1kmほどのあたりとふんだ。
4月3日の静岡での[鬼平クラス日]の時刻前にちょっと訪問してみようと、2時間早く東京駅を発した。
西焼津駅で下車したら、かなりの雨であった。
居合わせた青年に、ビニール傘を売っていそうなコンビニのあり場所を訊いた。
「かなり、ありますよ」
教わった場所あたりで確認したら、全然違う店を指示された。
それで、2kmほども歩いたろうか。
歩いてわかったのだが、西焼津駅は、新開地の真ん中に20年ほど前に新設されたらしかった。
コンピニで傘を買って店をでたら、雨が熄(や)んでいた。
(いや、なに、池波さんがお得意の、「雨が熄(や)んでいた」の熄の字を書いてみたかっただけ。でも、ほんとうにあがっていたんです)
あちこちで津市三ヶ名(さんがみょう)町と不動院を訊き、たどりついたときには、6,000歩(3.6km.)ほども歩いていた。
樹齢の古そうな老松が枝をひろげていた。
立て看板には「西暦1575年(天正3年) 快玄法師開創」とあった。
天正3年といえば、今川義元とともに長谷川元長(花沢城主)が桶狭で戦死し、息子の正長が田中城へ入ったころだが---。
もちろん、小川は長谷川家の領内であった。
【参照】「今川時代の長谷川家の年表」 http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html
(焼津市三ヶ名町の不動院)
境内には石小地蔵や碑などが散在していた。
庫裡の呼び鈴を押したが応答がないので、本堂正面の賽銭投げ入れ口にカメラをあて、祭壇にむけてシャッターを押す。
(祭壇の正面には不動明王像らしいものが鎮座していた)
不動堂の前は賃貸農園で、畝の一つに、地主さん(石原氏)の電話番号札が立っていたが、法栄長者の屋敷あとであったことを記した標識は、どこにも見あたらない。
貸し農場で野菜の手入れをしていた男性に問うと、
「自分は最近引っ越してき、ここを借りている者だから歴史のことはわからない。
不動院には、老婆が独居しているはず。
この貸し農場の石原さんと同じ姓の家が不動院の隣だから、そこで訊けば---」
隣家の石原さんは、貸し農場の本家・石原さんの分家であったが、法栄長者の屋敷跡の標識も見たことはないし、不動院は無住であると。
60年配の石原さんの応答であった。
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