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2011.04.08

火盗改メ・堀 帯刀秀隆(5)

長谷川うじは、いまは隠居なされ、自適を悠々とたのしんでおられる本多采女(うねめ)紀品(のりただ 67歳 家禄2000石)どのとご面識がおありと聞いておりますが---」
あたりをはばかりながらの、 (にえ)越前守正寿(まさとし 41歳 先手組頭)の問いかけであった。

(ここで、なぜに、本多のおじさまの名が---?)
いぶかりながら、平蔵(へいぞう 36歳)が言葉を改めて質(ただ)した。
本多さまにもなにか---?」

「きちんとお引きあわせ願いたくてな」
越前正寿は笑顔で応え、
「いや。お案じになるような用件ではござらぬ。かつてお勤めであった先手・鉄砲(つつ)の第16の組頭として、信用のおける組与力をご推挙いただこうと存じてな」

鉄砲(つつ)の第16の組といえば、今宵の客の一人---堀 帯刀秀隆(ひでたか 45歳 1500石)が組頭の組ではないか。
(すると、 助役(すけやく)に、火盗改メとして遺漏(いろう)でもあってか)

「ご都合のよろしい日時は?」
平蔵の確認に、
「茶寮〔季四〕が抑えられる日時であれば、こちらはいつにても---」


里貴(りき 37歳)の返事は、師走月の朔日なら迎られるということであった。

この夕べの寝着は、浅草・雷門の前の〔天童屋〕に仕立てさせた、紅花染めの腰丈の半纏であった。
松造(よしぞう 30歳)がお(くめ 40歳)とお(つう 13歳)のために襦袢をもとめたことを、平蔵がちらと洩らすと、ひらめいたらしく、さっそくに出向いて注文したのであった。

「きのう、できあがってきたのです」
薄い桜色の寝衣だと、合わせ技のときの肌の染まりとともに、平蔵がいっそう昂ぶると想像したらしい。

たしかに効果はあった。
ただ、里貴のほうが先に昂ぶってしまい、いち早く脱いてしまっていたのだが。
平蔵が三ッ目通りの屋敷へ戻ったのもあけ方であった。


12月1日の七ッ(午後4時)、市ヶ谷門下の舟着にもやった〔黒舟〕の屋根船で、表六番町の屋敷からくる本多紀品を、平蔵が迎えた。
「お久しぶりでございます」
「あれこれの気くばり、大儀におもっておる」
「相変わらずのご壮健ぶり、麗(うるわ)しゅう存じます」
「病いに伏せぬが、目が弱ってな。絵筆の運びがままならぬ」
「そういえば、豚児・辰蔵(たつぞう 12歳)の元服の折りには、みごとな昇竜を頂戴いしたしました」
「憶することなくに元称(げんしょう)と署名しはじめてから、はや3歳(みとせ)になる」

元称は、致仕後の紀品の画号であった。
継嗣・隼人紀文(のりぶみ 27歳)はまだ役に召すされずにい、小普請の身分のままであった---というより、病弱で出仕をはばかっていたというほうがあたっていた。

「今席の〔季四〕は---?」
応じる前に船は牛込門下の舟着きに寄せていた。
筆頭与力・脇屋清助(きよよし 53歳)をしたがえた贄 越前守正寿が待っていた。

平蔵が引きあわせた。
「ご足労をおかけし、申しわけございませぬ」
頭をさげた に、手をふった元称が、
「なにが足労なものでありましょうや。かように、屋根船で迎送をいただいております」
「これは、長谷川うじのお顔で---」
「ほう。銕三郎(てつさぶろう)は、いつのまに、そのような広い顔に---」

はにかんだ平蔵が、
「いつぞや、本多おじどのの相談役を詐称(さしょう)してお侘びに参じました、あの旅で面識した〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 50歳)と申す雲助の頭が、江戸へきて船宿をやっておりまして---」
手短に権七とのなれそめを話した。

参照】2008年2月9日~[本多采女紀品] () () () () () () () () 

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