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2011.09.11

老中・田沼主殿頭意次の憂慮(2)

「不作というより、北の国々では飢饉というほうがあたっている」
老中・田沼主殿頭意次(おきつぐ 67歳 相良藩主)が、端麗な顔ににあわず、吐いて捨てるようにうめいた。

それぞれの藩がふだんから備蓄米をたくわえておけば、農民の飢餓はいくらかは避けられたはずといいたかったのであろう。

領内の仕置は、それぞれの藩にまかせてきているのである。
幕府は、各藩から税をとりたててはこなかった。

それなのに人というのは勝手なもので、悪いことはお上のせいにしてしまう。

「先手組は、ご府内で騒動がおきた時の備えに、江戸から外へ出すわけにはいかない。代官支配地から鎮撫の要請がきたら、20組ある徒組に出役(しゅつやく)してもらうやもしれない」

意次のこの言葉に、平蔵(へいぞう 40歳)は、
「あっ」
合点がいった。

出役となったとき、合戦ではないのだから鎧兜(よろいかぶと)で出かけるわけではない。
しかし、暴徒は竹槍や棒ぐらいはもっていよう。
こちらも鎖帷子(くさりかたびら)や鎖袴(くさりばかま)着用で防護しなければ、:怪我がふせげまい。

いまの組子で、そんな戦時用の着衣まで手持ちしている者はほとんどいまい。

徒士の70俵5扶持という俸禄には、そういうときの備えの代金も入っていよう。

ちゅうすけ注】70俵を平時の物価に換算すると年70両(1120万円)。
5人扶持は1日に米2升5合---1升100文(もん 4000円として1万円、年365万円)。もちろん、出陣となれば5人の荷物もちを従えろが表向きの扶持であった。

(本丸の徒(かち)1の組の頭・石谷市右衛門清茂(きよしげ 48歳 700石)どのと西丸の徒頭で最も若手のわれが呼ばれたのは、出役に備えておけ、ということか)

そうはいっても、いまの西丸は徒組は3組しかのこされていず、平蔵の第4の組のほかは、前にも記したとおり、

第3の組頭 
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 55歳 800石)

第5の組頭
 桑山内匠政要(まさとし 61歳 1000石)

地方への出役となると、平蔵の組が指名されるのは分かりきっていた。

しかし、わずか3組のために、西丸の若年寄・井伊兵部少輔直明(なおあきら 39歳 与板藩主)を同席させるであろうか?

ちゅうすけの推理は、それから1年後に的を射たが、それはその時までお預けとしておこう。

組へ戻り、30人の徒士たちに、半年のあいだに鎖帷子と鎖袴を手あてしておくようにいいつけ、武具屋へも帷子の下へ縫いつける金網づくりの職人を探すように命じた。

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コメント

一揆の対応に鎖帷子(くさりかたびら)や鎖袴(くさりばかま)着用とはいかにも平蔵さんらしいアイデアでした

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.09.13 05:26

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