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2011.11.27

ちゅうすけのひとり言(82)

切絵図の大塚久保町(記録では大塚吹上)に松平大学頭と記されている守山藩邸址へは、幾組かの〔鬼平クラス〕のウォーキングで数回訪れていた。

しかし、そのウォーキングの眼目は、波切不動(現・本伝寺内 文京区大塚4丁目42 日蓮宗)、簸川(ひかわ)神社(文京区千石2丁目10)で、その経路の近道として占春園(せんしゅんえん)を選んだ。

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波切不動 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

ウォーカーたちの印象は、「都内にも、こんな隠された自然庭園があるんだ」

通りすがりだから、銘板にも注意を向けなかった。


再掲出
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(庭園が現在は[教育の森]となっていることを告げる銘板)

この地は、徳川光圀の弟、徳川頼元が万治元年(1659)屋敷とした。その子頼貞は元禄13年(1700)常陸の国)(茨城・行方)と陸奥(守山)3郡2万石をうけ守山藩主として大学頭を名のった。邸内敷地6万2千坪という。
氷川下の低地にある池は当時吹上邸として有名な占春園の名残りである。
ホトトギスの名所であったという。
明治36年東京高等師範学校がお茶の水(現医科歯科大学の所在地)よりここに移転してきた。戦後東京教育大学・筑波大学へと発した。
昭和59年区民の念願により旧東京教育大学跡地のうち、約29ヘクタールの払い下げをうけ、区民の憩いの場・防災広場・スポーツセンターとして活用するため、都心の緑の地として設計した。
そしてこの由緒ある地を『教育の森公園』と命名した。
              昭和62年3月   東京都文京区教育委員会  

交通機関は、東京メトロ・丸の内線[茗荷谷] 、都fバス[茗荷谷駅前]

駅前の交番脇の湯立坂上を横切り、坂ぞいに100mも歩くと公園。

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大学構内への入り口の右手の銘板。

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(旧藩邸碑文)

東京教育大学大塚の敷地は、その昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。
文政10年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主八代目の斉脩(なりのぶ)公(水戸烈公の兄)は夫人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松平大学頭(頼慎 よりよし)の屋敷に移った。
これを迎えた松平大学頭(頼慎 よりよし)公はよく斉脩公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて詠んだのがこの碑文で、格調高いものである。

 吹上邸中山苑東 幾株梅樹遠連空  
 落英渓畔千林雪 斜月楼頭一笛風
 疎影蔢娑留舞鶴 清香馥郁伴詩翁
 人間何処無春色 春色須従此地融
                   天然子

昭和五十二年一月
                東京教育大学


占春園の入り口は、校舎に対峙し左手、スポーツの広場の近く、右手。

Photo

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(門扉を入った真正面の石碑。付属小は左、庭園は右へ)

石碑の解説銘板。

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占春園

守山藩の上屋敷の庭園であった。
延享三年(西紀1746)に建いられて碑文に、
「我が公の園は占春と名づく。
その中観る所は、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景、有らざるは莫し」
とある。
当時は江戸の三名園の一つであったという。
池を落英池、橋を折柳橋という。
                         
            昭和五七年一○月一日 筑波大学


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(コース)

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(落英池)

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なぜか、突然、嘉納治五郎さんの銅像が---
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(落ち葉のじゅうたんを敷きつめた広場)

その広場に、こん呼びかけ札が。
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都会の塵や騒音から隔絶した世界へ入った感じにひたれる。


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(赤○=松平大学頭藩邸 近江屋板)


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コメント

すごい探索、ありがとうございます。
こんど上京したとき、半日の余暇をとり、占春園を逍遥し、多可や与詩の亡母を偲んでみます。
それにしても、ちゅうすけさん、よくぞここまで三木忠大夫を追いつめましたね。
その推理力と文献の追尾法には頭がさがります。池波先生が生きていらっしゃったら「一杯飲もうよ」とおっしゃったかもね。

投稿: 左兵衛佐 | 2011.11.27 06:37

>左兵衛佐 さん

>池波先生が生きていらっしゃったら「一杯飲もうよ」とおっしゃったかもね。

飛び切りの賛辞、ありがとうございます。
残念なことに、池波さんと読売新聞の映画広告賞の審査員をしていたときにはまだ鬼平にのめりこんでいませんでしたから、池波さんは審査のあと、いつも、落合恵子さんと同じ送りの車で帰っていました。

投稿: ちゅうすけ | 2011.11.27 07:46

鬼平の江戸と現在の東京をつなげて語っている方は大勢いらっしゃいます。
ちゅうすけさんのこのブログがユニークなのは、史実の長谷川平蔵というか、長谷川家とつながる江戸と東京のほかに、駿府(静岡市)、田中城(静岡県藤枝市)、小川(こがわ 同・焼津市)、三方ヶ原(同・浜松市)、岡崎(愛知県)京都市、初瀬(奈良県桜井市)、そして盗賊の生地として日本各地にまで手をひろげてところです。歴史上の人物としても、将軍・家治、家斉はもとより松平定信、田沼意次などにまで筆がおよんでいます。
アクセスしていると、なんだか、日本近世史と日本地理を再勉強しているような気分になります。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.11.27 08:50

>文くばりの丈太 さん
文くばりの丈太 さんのように丹念に読んで評価してくださる鬼平ファンがいらっしゃるから、書き手としては一瞬も気がぬけません。
いいえ、書き手としては、ほんとうに書き甲斐、調べ甲斐があると感謝しています。
これからもご叱声ください。

投稿: ちゅうすけ | 2011.11.27 12:26

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