盟友との宴(うたげ)(4)
(酒が苦くなった)
平蔵(へいぞう 41歳)は腹の中でひとり苦笑していた。
(あのご仁のことをおもうたびに、せっかくの酒の味がおちるようになった。困ったものだ)
平蔵とすると、松平定信には会ったこと もなければ近接的に言葉をかけられたこともない。
しかし、このところ、外様大名を見かけると、あの仁の息がかかっているのではないかと、疑いの目でみてしまう。
いまは、先手組の組頭として本城の躑躅(つつじ)の間へ詰めているから、廊下ですれちがうこともなくなった仁---西丸・若年寄の井伊兵部r少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 40歳 与板藩主 2万石)にまで、ともすると疑念をおよぼすことがある。
直朗は、田沼意次(おきつぐ 68歳)の四女を内室に迎えていたくらいだから、まさか反田沼派に与(くみ)しているとはおもえないのだが。
しかも、直朗は本家で大老・井伊掃部頭直幸(なおひで 57歳 江州彦根藩主 34万石)の男子を養子にむかえていた。
【参照】2012年3月1日[天明5年(1785)12月の平蔵] (6)
【ちゅうすけの独白】そういえば、病院の病室で記した[天明5年(1785)12月の平蔵] (4)に、退院したら意次の四女の墓があることになっている徳雲寺(臨済宗 文京区小日向4丁目)を探訪しようとおもっていたのに、まだ実現していないが、病気の進行と躰へのいたわりが重なり、気力が減退、実現がおぼつかない。
しかし、四谷須賀町の全興寺に眠っていた意次の三女・千賀姫の例もある。
遠州・横須賀藩主西尾隠岐守忠移(ただゆき)に嫁ぎ一児を産んで歿した。
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]
諸賢はその史実をご存じないのか、意次が失脚したとき、あたかも生存していたかのような記述を散見する。
ここから先のことは、その時期に至ってから明かすべきことだが、一年先のその時期まで気力を保つ自信がちゅうすけになくなってきた。
料亭[美濃屋〕での、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 41歳 600俵)のつぶやき---
「さらにもう2万石収公などという追徴があるわけではあるまいな」
1年も経たないうちに現実のものとなった。
『続徳川実紀』の天明7年10月2日の記述。
田沼主殿頭意次へ仰下されしは、勤役の中不正の事ども追々相へ、如何の事にかおぼしめしぬ。前代御病臥のうち御聴に達し御沙汰もありし事により、所領の地二万七千石を収納し致仕命ぜられ、下屋敷に蟄居し、急度慎み在べしとなり。(中略)
遠江国相良の城は収められ御前をとどろらる。
定信が老中職について4ヶ月後の決定であった。
【参照】2006年12月4日[『甲子夜話』巻33-1]
2006年11月28日[『甲子夜話』2-40]
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