〔朝熊(あさくま)〕の伊三次
『鬼平犯科帳』文庫巻14の[五月闇]で刺殺されるまで、巻4[あばたの新助]で鬼平直属の密偵として初登場して以後、34篇で活躍。歿後も6篇に名前が出、その働きがしのばれている。
代表的な篇は、巻6[猫じゃらしの女]、巻9[泥亀]、巻12[見張りの見張り]同じく[密偵たちの宴]と、殺される[五月闇]。
年齢・容姿:初めて顔見せした[あばたの新助]のときが寛政元年(1789)で30歳、それから7年後の[五月闇]は37歳。きびきびしたいなせな立ち居ふるまい。
生国:不明。2歳のときに東海道・関宿で捨て子されており、女郎屋で女郎衆に育てられた。
探索の発端:〔四ッ屋〕の島五郎の配下だった29歳のときに捕縛されて、密偵に。〔四ッ屋〕一味の逮捕の経緯は記されていないため不明。
(参照: 〔四ッ屋〕の島五郎の項)
密偵となってからは、清水門外の火盗改メの役宅の長屋で起居。
結末:密偵として働いていたとき、過去の女がらみのことで、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵に刺殺された。気があった同心・木村忠吾が、菩提寺・威徳寺の自家の墓域の隣に葬ってやった。
(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)
つぶやき:出生地を三重県としたのは、捨て子以前のことはまったくわからず、発見されたのが関の宿(しゅく)だったから。
「とおり名(呼び名)」を付したのは、これまでの盗人たちのタイトル例を踏襲しただけ。
かんがえられるのは、捨て子された関の宿をとって「〔関〕の伊三次」とするのがふつうと。。
が、あえて〔朝熊〕とつけたのは、文庫巻9[泥亀]で、金をとどけてやった初対面の相手〔泥亀〕の七蔵を安心させるために、「おれも、お前さんや〔関沢〕の乙吉どんと同じお盗(つと)め仲間でござんすよ」とおもわせるために、咄嗟に名乗ったにちがいないと推量したから(注・[〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵]を参照されたい)。このあたりが、伊三次の機転がきくところ。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項)
ちなみに、伊三次が〔朝熊〕を名乗ったのは、文庫巻9p111 新装p116 の1回こっきりである。
朝熊神社は、かつては度会(わたらい)郡朝熊郷の氏神だったが、いまは伊勢市に合併され、同市朝熊町に鎮座。
関宿の女郎屋〔丹後屋〕の女将に拾われ、宿場女郎衆にそだてられた伊三次は、10歳のとき岡崎の油屋へ出されたが、いつのまにやら盗人の世界に入っていた。
28歳のとき〔強矢〕伊佐蔵の女房と駆け落ちし、けっきょく、その女を殺してしまい、伊佐蔵に命を狙われることになった。
鬼平にいわせると、密偵として、することなすことにそつがなく、鬼平の意のあるところを遺漏なく察し、探索が壁にぶちあたって困憊していると、「いま、すこしでござんす」と声をかけてみんなをふるいたたせたほど、チームにとってかけがえのない男であったと。享年37歳。
ちなみに、伊三次の墓標のあった威徳寺は、明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀された。
威徳寺を合祀している瑞聖寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)
瑞聖寺は禅宗系でも黄檗宗だが、威徳寺は、権之助坂にあった浄覚寺ともにその支院だったようだ。
瑞聖寺の住職・古市師によると、黄檗宗はもともと檀家をもたないので、明治の排仏毀釈のときに経済的に行き詰まるところが多く、仏具なども売り払い、合祀のときにはほとんど何もなかった例が少なくなかったと。
(ということは、木村忠吾の家は威得寺の檀家ではなく、墓域だけ借りていた?)
司馬遼太郎さんの、徳川家康と三河衆の気質を書いた『覇王の家』(新潮文庫 連載は『小説新潮』1970.01-71.09)p537に、家康が於阿茶局が産んだ第6子・忠輝を追放した先が、伊勢朝熊(あさま)だった、とある。
[泥亀(すっぽん)]は、『オール讀物』1972年11月号に掲載された。
発表の時期が近いから、池波さんも連載中の『覇王の家』を読み、「朝熊」という三重県の地名に興味を覚えたのだろう。吉田東伍博士『大日本地名辞書』には、村名「朝熊(あさくま)」も「朝熊(あさぐま)神社」も載っていることだし。
村名がいつから「朝熊(あさま)」と縮まったかは不明。
東海道・関宿の探索リポート(2005.09.19)
密偵・伊三次がいう。
「おれは、むかし、勢州(三重県)関の宿場で捨子にされてねえ」
「二つのときだ。そのおれを、関の丹後屋という店の宿場女郎のみなさんが拾ってくれてね、それから十(とう)になるまで、おらあ、そこの女郎衆に育ててもらったのさ」 (文庫巻6[猫じゃらしの女])
そういうことだと、関宿(せきしゅく)へ行って、伊三次が育てられた置屋を見たくなるではないか。
長い間の懸案だった。
池波さんも、現地を踏んだにちがいない。思い切って出かけた。
JR関駅
かつての東海道筋。櫺子(れんじ)窓の家並みが保存されている。
宿場の真ん中あたりから亀山方面を望む
関宿の石標
配達途中の酒屋のご主人に聞いた。
「江戸時代に、女郎屋があったのはどのあたりでしょう?」
「あの、塩の軒下看板が出ている家の、向う隣ですよ」
塩の軒下看板の家は八百屋だった。
八百屋の前から逆T字に関神社(写真)への参道がのびている。
その隣(江戸側)の家に、教育委員会の銘板があった。
「かつての置屋。隣の家(写真)には飯盛女がいた」と。
伊三次を育てた女郎衆は、この家で旅人に色を売っていたのだ。
伊三次が捨子されていたのは、関神社の鳥居の下だったのかも。置屋へも泣き声が届く、百歩の距離だ。
朝熊神社の探索リポート(2005.09.20)
こんどの取材旅行の目的の一つに、密偵・伊三次が、文庫巻9[泥亀(すっぽん)]で、痔病みの七蔵へ、鬼平のいいつけで大金を届けてやるとき、なぜ、 〔朝熊(あさくま)〕という「通り名(呼び名)」を名乗ったかの謎を探ることもあった。
日本中で朝熊と書く地名は、三重県伊勢市朝熊(あさま)しかない。そこの鎮守が朝熊(あさま)神社である。
近鉄山田線に「朝熊」無人駅があり、有料・伊勢二見鳥羽ラインに「朝熊IC」がある。
無人駅「朝熊」にはタクシーは客待ちしていないらしい。
一つ手前の「五十鈴川」駅下車。初老のタクシー・ドライヴァーに行く先の〔朝熊神社〕を告げると、無線で本社へ問い合わせる。
あれこれのやり取りの末、80歳・運転歴60年の大ヴェテランから道案内が伝えられてき、発車。
「私も20年運転しているが、朝熊神社へ行くのは今日が始めてですわ」とタクシー・ドライヴァー。
舗装道路を左にそれると、車1台がやっとの農道のような未舗装の、丘の麓づたいに曲がりくねった道へ入る。木の枝葉や草が容赦なく車体をかする。
徐行3分。消えかかっていて字の読めない標識と石段があった。
石段を登る。左に皇大神宮摂社の朝熊御前(あさくまみまえ)神社、右手奥に同・朝熊神社。まったく瓜二つの社殿。
朝熊神社
朝熊御前神社
それはいいとして、地元では「朝熊(あさま)」と呼ぶのに、池波さんは、〔朝熊(あさくま)〕の伊三次とした。
池波さんが常用していた吉田東伍博士の労作『大日本地名辞書』(明治33--)は「朝熊(あさぐま)神社」と濁っている。地名のほうには「朝熊(あさくま)」のルビ。
「僧空海求聞持法を山中に修めし時、朝に熊獣出で、夕に虚空蔵現ぜしよりてかく名づけたりと。又、旧籍聞書には熊野は朝隈なり---うんぬん」
伊三次が名乗るとしたら、揺籃の地名をとって〔関(せき)〕の伊三次のはず。
池波さんがそうさせなかったのは、生誕地が不明であること、「呼び名」は〔泥亀〕の七蔵を安心させるために同業らしく一時的に〔朝熊〕を借りたこと、そのとき、池波さんの脳中には吉田博士の辞書の記述があったのであろう。
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コメント
こんにちわ。
先日からコメント頂き、ありがとうございました。
今朝は丁度「あばたの新助」を読みながら通勤してきました。
これが伊三次の初登場だったんですね。何度も読み返している割には頭に入ってませんでした…。
投稿: KEI | 2005.01.21 13:19
私は、伊三次が大好きです。
というのも、組織の人ではなく、いってみれば密偵---つまり、助っ人ですよね。
いつ、不要といわれても仕方がない立場です。
ところが、組織内のひとよりも長谷川平蔵への忠誠心(ロイヤリティ)が高く、そして、みんなを盛り立てるために、気づかっている。
ほんとうに日本人らしい日本人だと思います。
なのに、死んでしまう---殺した伊佐蔵が許せないのです。
投稿: 目黒の朋子 | 2005.01.21 13:22
>KEI さん
いらっしゃい。
[あばたの新助]をお読みになったばかりとか。
あの話の舞台、富岡八幡宮と、富吉町の正源寺の裏、新助が連れこまれた相川町の〔川魚・ふしや〕のあたりを、よく、クラスのメンバーとウォーキングしました。
夏には、正源寺ではスイカズラの淡橙色の花が可憐です。
もし、KEIさんが東京にお住いでしたら、ご覧になりにお行きになるといいですよ。
これからも、お互いに情報交換をいたしましょう。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.21 13:37
>朋子さん
伊三次が好きっていう読み手は多いですね。
骨身惜しまず、手抜きをしない。気くばりを絶やさない。侠気がある。雰囲気を引き立てる----ときたら、男が男に惚れます。
その上、提灯店のおよねのことも、心から案じてやっている----これでは、女性もぞっこん、でしょう。
朋子さんのお気持ち、よくわかります。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.21 14:46
伊三次とくれば女性のコメント殺到じゃないですか。
女性の人気では鬼平のなかでもベストスリーに入るでしょう。
池波さんのところにも「何故殺させたんだ」という投書がきたそうです。
そこで池波さんの弁明を文庫「鬼平犯科帳の世界」から紹介します。
「ぼくだって死なせたくはないんですよ。しかし、いま言ったように、彼が危急の状態に陥ったとき、ぼくは彼の逃げ道を用意しておかなかったんですね。だから、そんなとこにまで彼を追いこんでしまったことを悔やみながら、もう助けようがないんだ。」
池波さんは事前に構成を組み立てることをせず、人物の
歩くがままに歩かせるといってます。
でも男から見ても伊三次はほれますね。
忠吾の心意気にも拍手です。
投稿: 靖酔 | 2005.01.21 20:41
ちゅうすけ様
コメントありがとうございました。このようなblogがあろうとは!
初霜煎餅についても丁寧にかいせついただきありがとうございました。どこにコメントをいれようか本当にまよったのですが(贅沢な悩みです)伊三次が好きなのでここにします。本当に丁寧に解説されているのですね。またきます。
投稿: impression | 2005.04.22 18:57
impressionさん
このハンドルネーム、もしかして、ジフシー・キンクスですか?
米国読みなら、ジプシー・キングズ。
ようこそ、いらっしゃいました。
このブログは、ブログの常識をやぶって、83冊目の著書のための原稿ノートのつもりです。
どうか、今後とも、ごいっしょに鬼平を楽しみましょう。
投稿: ちゅうすけ | 2005.04.23 20:10
伊三次ゆかりの地、興味深く見せていただきました。
伊三次が活躍する話は大好き(定番ですが「猫じゃらしの女」は本で読んでもドラマの物を見てもトップクラスに面白い一編だと思ってます)ですから。
それにしても、本編で「伊勢の国」と書かれている記述を見ても「伊三次は遠い所から来たんだなー」と漠然と思うのですが、こうやって先生のレポートで「三重県」と伺うと改めて驚いてしまいます。
それにしても、伊三次にも鬼平にも巨大なる関心がありますが、江戸以上に伊勢は遠く、訪れる機会は作れるものやら・・・
はるか羽州に住
投稿: ぶらなりあ | 2005.10.23 04:49