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2006.05.17

松平左金吾の大言壮語癖

冬場の火盗改メ・加役を志願した松平(久松)左金吾定寅に対する、宰相・松平(久松)定信派の隠密たちの追従の報告書はつづく。


一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。左金
  吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。議論
  で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
   殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口
   もいいかえせることではない。
   まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれ
   でいい納めだろう。
   なんとしてもかなうはずはない。長谷川平蔵が左金吾どのへ
  伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。

隠密たちは、もっぱら、左金吾派のところへ行って取材している。そのほうが、定信の配下で隠密たちを束ねている水野為永が喜ぶからである。

水野為永は、先手組与力の息子で、定信より7歳年長だが、学問ができるというので、定信の勉学の友として伺候した。
そして、保守・家柄派、アンチ田沼の輿望をになって定信が老中首座に任じられたその日から、内閣調査室長の役をみずからに課したのである。隠密たちの報告書にすべて目を通した上で、定信へあげた。

一. 左金吾が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人
   もいない。武術者もこれまたいない。
  歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰
  卿のように詠むのがよろしい。
  そのほかの歌は歌ではない。
  拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のよう
  に詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。
  これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものでは
  ない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に
  立たない、といい放ったよし。
  かつまた、絵描も天下に一人もいない。いま栄川(泉)など
  が上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっと
  つけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵では
  ない。
  絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、
  山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。
  法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、
  ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい
  放ったよし。
  その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言し
  なかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1,000石)Iは、堀帯刀の後任で、先手弓の1番手の組頭(長谷川平蔵は弓の2番手の組頭)。

『鬼平犯科帳』では、京極備前守に命じられて、四谷・坂町の長谷川組の組屋敷の警護をしている。伊予守の組の組屋敷は牛込の山伏町である。そんなところから、わざわざ四谷・坂町まで出向かなくても、坂町のまわりには、先手の数組の組屋敷があった。備前侯は、それらの組に命じればよかったものを、この点では、ぬかった。

先手組頭たちの江戸城の詰め所---ツツジの間での、左金吾の大言壮語を許したのは、彼が宰相・定信と同じ久松松平の一族で、ことあるたびに、「定信どのに申し上げたいことがあったら拙者に申されよ。取り次いで進ぜる」といっていたからである。

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