家治臨終日の謎
田沼意次(おきつぐ)が老中として政治力を存分に発揮できたのは、第10代将軍・家治(いえはる)の信任があったからである。
『徳川実記 第10編』の付録によると、家治は幼いときから聡明で、寛容の人であったらしい。
その家治が50歳で薧じた日付けは、公には天明6年(1786)9月8日ということになっているが、これにはいくつかの疑念がもたれている。
その1は、12月4日の[田沼意知、刃傷後]の年表には書かなかったが、信任あの篤かった意次が、8月25日に家治の病室へ見舞いに行こうとして拒否され、果たせなかったこと。
その2は、上記の項に書き記したように、2日後の8月27日に、意次に、老中を病免、雁間詰の辞令が発せられ(『実紀』) 、意次が「まことにお上(家治)の台命か」と訊き返し、ためらいつつ「しかり」と答えられたらしいこと。
つまり、いずれの場合も、家治生存の姿が確認されていない。
このあたりを、3人の作家---村上元三さん、平岩弓枝さん、佐藤雅美さんがどう描いているか、順々に引用してみたい。
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