意次の三女・千賀姫の墓
遠州・横須賀藩(3万5000石)の西尾家7代目の藩主である隱岐守忠移(ただゆき)の内室---田沼意次の三女の墓が四谷・須賀町8番地の法輪山勝興寺にあるというので、行ってきた。
あらかじめ、葉書で案内を乞うておいたので、ご住職・吉川(きっかわ)弘眼(こうげん)師(72歳)が準備してまっていてくださった。
正面門柱。ただ真正面は別の家。左カーブした参道奥に本堂。
本堂は、屋根の修理中なので、足場と幕に覆われていて、見えない。
当寺には、西尾家の累代藩主の内室と愛妾、家督前に逝去した子息たちの墓がある。
隱岐守忠移の内室は、千賀姫。安永3年(1775)11月23日歿(20歳)。
法名:真光院殿珠繋円明大姉。
生前に、男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で歿。
於千賀が逝ったとき、忠移は28歳。
田沼意次が老中として政治をとっていた時期だから、離縁もなにもなかった。意次の失脚は、於千賀の没12年あとであった。
ついでながら、青年医師・千賀道有が若かった意次と親しかったことは[2-1 蛇(くちなわ)の眼]に書かれている。この千賀と於千賀の命名にはなんらかの関係があるのだろうか。
吉川師のご指摘で初めて知ったのだが、於千賀の墓石の正面左右の枠には、田沼家の家紋・七曜が刻まれていた。
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コメント
勝興寺さんへ行っていただいて有難うございました。田沼意次失脚前に亡くなっていたのでは離縁の対象にはなりませんですね。でも名前が解って親近感がわきました。デモ、すぐに千賀道有を思い浮かべるとは! 於千賀さん、多分、美人だったでしょうね。
投稿: 安池 欣一 | 2007.01.21 14:33
いやあ、凄い墓域でした。
それぞれ、2m以上はあるといえそうな歴代の内室の笠つき墓石と愛妾の笠つき墓石がずらりと並んでいて、壮観でした。
しかも、きちんと整備されているのは、殿様の後裔がご在命だからでしようね。
もっとも、後裔のお殿様は商売を人任せで、つぶれてばかりと、ご住職がせ笑っていました。まさに「殿さま商売」。
跡継ぎがお嬢さんばかりなので、谷中にある墓も整理して合体させようとり準備がすすんでいるようです。
SBS学苑の東京ウォーキングのコースにいれましょう。長谷川家の戒行寺とともに。
各内室さんの名前のリスト、すべていただきましたから、明日、コピー、送ります。桑原さんに内容をご説明して、ご入用のようだったら、コピーして送ってあげてください。
きょうは、京極家の「寛政譜」を郵送しておきました。
投稿: ちゅうすけ | 2007.01.21 15:25