« 寛政重修諸家譜(15) | トップページ | 寛政重修諸家譜(17) »

2007.04.20

寛政重修諸家譜(16)

Photo_3402007年4月19日[寛政譜(15)]で、長谷川伊兵衛宣次系5代目・伊兵衛宣安次々弟・藤八郎宣有と、その庶子・平蔵宣雄が、当家の代打要員として厄介していたことを記した。

藤八郎宣有には代打の出番はなかったが、平蔵宣雄は、大ピンチでみごとに働いた。
すなわち、寛延元年(1748)正月10日、病床にあった6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が息を引き取ったのである。

[1-2 本所・桜屋敷]には、こうある。

宣雄が、下女のお園に手を出し、お園の腹にやどったのが、すなわち平蔵(幼名・銕三郎。のちの宣以)である。
宣雄は生来、謹直な人物で、病弱の甥の修理(改名後は権十郎)がちからとたのんでいたほどであったけれども、三十ちかくなっても妻を迎えられぬ身であったから、ついつい下女に手を出したとしてもむりはない。(略)
平蔵(銕三郎)が生まれた。
ところが、それからニ年目に、修理(権十郎・宣尹)の病患(びょうかん)ただならぬことになり、子がないため、妹の波津(はつ)を急ぎ養女にしたものである。
修理(権十郎・宣尹)は気息奄々(きそくえんえん)たるうちに、
「波津に、叔父上を---」
いいのこして亡くなった。 p56 新装p59

池波さんは、連鎖短篇シリーズ『鬼平犯科帳』の企画を10年近くも温めていたと、あちこちに洩らしている。
長谷川伸師の書庫から借り出した『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』で、[長谷川平蔵年譜 基メモ]も準備していた。
もっとも、それは、あわただしく書き写されたものらしく、平蔵宣雄を実父・宣有の弟として並べていた。
『寛政譜(5)』でようやく手にいれることができた栄進舎版『寛政重修諸家譜』をあらめたときも、自分の早飲みこみに気づかなかったかして、宣有宣雄続柄が修正された気配はない。
頭の回転がすばらしく速い池波さんらしい、ほほえましいとしかいえない、即断の一つである。

池波さんは、宣雄「生来、謹直な人物」という性格設定をした。
従五位下、備中守まで昇進している経歴から判じたのであろうか。

宣雄生誕は、寛保4年(1719)。父親の宣有は、30代後半か。
家長・宣安は43,4歳で、4年前に家女に権太郎(のちの修理、権十郎宣尹)を産ませていた。

宣雄を武家にふさわしい「謹直な人物」に育てたのを、宣安の家女とは断じがたい。
実母で、備中・高梁の松山藩で馬廻役を勤めてした三原七郎兵衛の家風を受けついでいた女性を、どうしてもおもいうかべてしまう。
少なくとも、宣雄の性格形成期までは、藤八郎宣有の看病がてら、長谷川家で起居し、宣雄を養育・教導したのではあるまいか。

そして、20数年経過
寛延元年(1748)正月10日。宣雄の息・銕三郎(のちの平蔵宣以)とそのも、長谷川家に暮らしていた。
当主・権十郎宣尹は死の床に。

Photo_341
(黄○=宣尹の実妹。小説では波津。母は家女)。

そして、30がらみになっている病いがちの実妹・波津だが、このところも具合は相変わらずで、床にあったと推測する。
つまり、彼女を養女とし、従兄弟・宣雄を婿として迎えたのは、家名と俸禄を失わないためで、花嫁は病伏したまま、名ばかりの婚儀にすぎなかったのではなかろうか。

そう推測する根拠は2つある。
その1。戒行寺の霊位簿を調べた釣 洋一さんによると、波津は、2年後の寛延3年(1750)7月15日に没している。死因は、兄・宣尹と同じく長谷川家の家病である、労咳。
銕三郎は5歳。

その2.平蔵宣以(幼名・銕三郎)の実母は、平蔵が火盗改メとしてあげた抜群の成果を惜しまれつつ、寛政7年(1795)5月10日(公式発表は19日)に逝った、その4日前まで生きており、戒行寺へ葬られ、宣雄の伴侶にふさわしい戒名を授かっていること。 [寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]

波津の婿となることを従兄・宣尹から頼まれた宣雄が、容易に諾したのは、上記の事情があったからであろう。

もっとも、小説にあるような、波津による継子いじめを設定したほうが大衆受けするということも、わからぬではない。

|

« 寛政重修諸家譜(15) | トップページ | 寛政重修諸家譜(17) »

003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事

コメント

私のなかのイメージでは加害者から被害者への転換で、波津さんが気の毒になってきました。「波津」も池波さんの創作で名前もわからないということでしょうか

投稿: パルシェの枯木 | 2007.04.20 21:31

>パルシェの枯木さん
そうです。『寛政譜』は、女性はすべて名なしです。
戒行寺の霊位簿も、法号(戒名)と歿年だけの記録で、俗名の記載はないようです。

もっとも、隣の勝興寺は、西尾隠岐守の内室---田沼意次の第3女の俗名を「千賀姫」と記録していましたね。

俗名の記録は、寺ごとに、それぞれなのかもしれません。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.21 07:06

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 寛政重修諸家譜(15) | トップページ | 寛政重修諸家譜(17) »