羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)
宝暦9年(1759)が明けた早々の1月15日、平蔵宣雄(のぶお)の同役の、小十人組・6番組頭の本多采女紀品(のりただ 2000石)が耳打ちしたように、1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)が西丸・目付に転じた。
1番組 曲渕勝次郎景漸 1650石 36歳
宝暦7年7月1日→同9年1月15日西丸・目付
(布衣)同年12月18日
羽太求馬正尭(まさかみ) 700石 45歳
宝暦9年2月4日→明和2年6月5日卒
(布衣)宝暦10年7月18日
曲渕の家禄は、上のリストにあるように、1650石だから、1000石高格の小十人組頭や目付を勤めても、足(たし)高は1石も補填されない。
それでも勝次郎景漸が目付に執着したのは、将来に、町奉行(3000石高格)を見据えていたからとしか思えない。町奉行は目付経験者という不文律のようなものが、当時、できていたのである。
景漸の目付への執着は、発令の1月15日という日付にもあらわれている。
彼は、1月15日付で小普請奉行に転じた牧野織部成賢(しげかた 2000石 46歳)の後任である。
前任者の転出日に、即、発令というのは、いかに繁忙な職といえども、珍しい。事前の周到な根まわしをそこに見る。
逆に、後任の羽太正尭の発令が常識以上におくれているのも、曲渕景漸の人事がいかに急だったかをしのばせる。
ところで、正尭の「布衣(ほい)」授爵が、翌10年7月にずれこんでいる。
宝暦元年(1751)から10年間の記録を調べたが、この年だけ、7月と恒例12月(ただし3人)の2回授勲があった。
で、考察してみた。
羽太正尭のような宝暦9年末の受爵予定者を、事務方が見落としたために、翌10年7月までの資格者と混ぜて、18日に「布衣」をゆるす発令をしたのであろうと。珍事である。
まったく異例の弥縫(びほう)処置と断じるには、7月18日の20人の叙爵資格取得日をあたってみないと、はっきりしたことはいえない。まあ、取りたてて騒ぐほどの事件でもないので、時間がある後日にゆずる。
【つぶやき】
その1. 曲渕の目付への固執ついでにいうと、家禄500石以上も、町奉行への不文律の条件であったといわれている。
平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平)が足かけ8年も火盗改メをつづけ、余人になしえないうな嚇々(かくかく)たる成果をあげ、世間では「次は町奉行」---との新聞辞令がもっぱらであったのに、火盗改メのまま終わったのは、家禄が400石で家格が100石不足していたのと、目付を経由していなかったために、幕閣たちが任命をがえんじなかったとも伝えられている。判官びいきの世論は「100石加増してやれ」との声をあげたが、松平定信派でかためていた幕閣は、もちろん、聞く耳をもたなかった。
その2.かねて念願の北町奉行となった曲渕甲斐守景漸は、月番にあたっていた天明7年5月に江戸で起きた、いわゆる米騒動の暴徒を鎮圧できなくて、長谷川平蔵宣以の先手組2番手など10組の出動を仰いだばかりか、「舂米(つきこめ)商人たちを詮索してみたが、米は秘匿していなかった。こうなったら、食えるものをなんでも口にして、秋の収穫まで我慢するしかないのう」などと、冗談にもならない暴言を吐いて罷免された。
その3.こののち、牧野成賢は大目付まで昇進していたが、天明4年(1784)3月24日、城中で、佐野善左衛門政言(まさこと)が若年寄・田沼山城守意知(おきとも)を刃傷におよんだ現場に居合わせながら、行動が適切でなかったと、25日間出仕をとめられた。成賢は71歳だった。
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コメント
宝暦10年(1760)7月18日の20名の「布衣(ほい)」叙爵資格取得日のうち、使番が11名もいるので、この人たちだけなら『柳営補任 三』(東京大学出版会 1964.3.25)1冊でことが足りる。
発令年月日
内藤主税信就 宝暦9年1月11日
堀 三六郎直員 宝暦10年1月11日
阿部内記正親 宝暦10年1月11日
青山七右衛門成存 宝暦10年1月11日
大河内善兵衛政与 宝暦10年1月11日
榊原左兵衛職尹 宝暦10年1月11日
諏訪靱負頼庸 宝暦10年6月1日
興津左京忠央 宝暦10年6月1日
徳山五兵衛頼屋 宝暦10年6月1日
駒井角左衛門勝内 宝暦10年6月1日
で、昨年末の組で漏れていたのは、使番では冒頭の内藤主税だけだが、羽太正尭の漏れ組もわかったので、未確認の9名は調査打ち切り。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.10 09:13
二人の漏れは翌年に弥縫(びほう)処置されたのですから、現代の社保庁のお役人に比べれば・・・ですね
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.10 12:32