徳川将軍政治権力の研究(6)
まずもって、お詫びから始めなければならない。
郡上八幡の宝暦期における農民一揆で3万9000石を召し上げられた上に改易された、藩主・金森兵部少輔(頼錦(よりかね)の『寛政譜』の個人の項を読み返していて、気づいたのが、次の文章---。
「さきに石徹白の社人を追放せしとき、家臣等曲事ありしをもしらず。また石徹白豊前が悪事を訴えるものありしを、豊前が罪をも糾問せざるにより、争訴いよいよ止ず」
これは郡上八幡の農民一揆とは別件であろうから、田沼意次(おきつぐ)の評定所出座とは関係がきわめて薄いと判断して見逃していた。
ところが、『御僉議御用掛留(ごせんぎごようがかりとどめ)』には、しばしば、石徹白の文字が現れる。
で、図書館で平凡社版『日本歴史地理地名体系 岐阜県の地名』で、白山南麓、石徹白(いとしろ)川の支流・宮(みや)川右岸に鎮座する下社「白山中居(はくさんちゅうきょ)神社」(岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)2-48 URL)が問題の地とわかった。
白山信仰による白山参道として、加賀馬場(鶴来白山比咩神社)、越前馬場(勝山平泉寺)、美濃馬場(白鳥長滝寺)がひらかれ、「白山中居神社」は美濃側のその下社である。
石徹白騒動は、神主側と社人との争いであったが、大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)でさらりと、郡上八幡農民一揆側と社家側が裏で通じていた気配もあった、と推測を記している。これも読み飛ばしてしまっていた。
なお、この訴訟事件については、さらに史料をあたってみたい。
ところで、読み直した金森兵部少輔頼錦の個人譜を掲げる。
正徳3年(1713) 生
延享4年(1747) 奏者番 35歳
奏者番は、若手有望の大名が指名される、幕閣への幹部候補生ともいえようか。つぎは寺社奉行を兼帯し、才能・識見・人格がみとめられると---つまり、上への受けがよいと---大坂城代、京都所司代、若年寄、さらに運がよければ老中も夢ではない。
文人・趣味派の頼錦が、付き合いに心がけたとしても、無理はないが、無理したのは資金である。重役たちは、軍資金を増税によってまかなおうとして、農民一揆に直面した。
全国、いたるところで一揆はおきていたが、郡上藩の重役たちは、その処理をあやまった。
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コメント
引用した金森兵部少輔(ひょうぶしょうすけ)頼錦(よりかね)の個人譜、当人が提出したものではなく、幕吏によつて書かれたものですね。
ほとんど全文が、にくしみをこめた弾劾文に終始しているのは、『寛政譜』の中では、きわめて異例の文章です。
投稿: ちゅうすけ | 2007.08.21 03:23