『よしの冊子(ぞうし)』(11)
よしの冊子(寛政元年8月24日より)
一. 松平左金吾(定寅 さだとら 久松松平の一族 長谷川平蔵の政敵の一人)が湯治願を、安藤対馬守(信成。若年寄)へ差し出した翌日、早速に認可された。
蓮池御門の当番(先手組の平時の職務の一つ)にあたっていたが、このごろは湯治場が繁盛して湯女なども多く働いており、放蕩者も入りこんでいる模様なので、病気治療ということにして巡察を、上から内々にいいつかったのであろうか。
先手頭の湯治願などは前例がない。だいたい左金吾には痔疾の持病があるが、湯治に行くほどの重症でもないから、きっと何かわけありだろうと。
【ちゅうすけ注:】
先手組の通常の任務は、江戸城内の五つの門の警備である。
蓮池門もその一つ。
一. 四谷あたりに先手同心の屋敷の一部を借りていた紀州家中の安藤長三とやら申す武士は放蕩者で、何日も家を明けて不在のことがしょっちゅうだ。
あるときなど、仲間どもが訪ねても居ないので出奔届をした。
その後、四谷坂町で長谷川平蔵の手の者に召し捕られたとき、紀州家中の者なので仲間か縁者のところへ連れていってほしいと頼んだが、縁者は見つからず、仲間は出奔届を出しており無宿人になってしまっていた。
長三がいうには、出奔届のことはまったく知らなかった。留守しているうちに無宿人になってしまい大難儀していると。
聞いた長谷川は、それは困ったことだ、といったそうな。
【ちゅうすけ注:】
四谷坂町というと『鬼平犯科帳』の愛読者は、長谷川組の組屋
敷---を連想するが、史実は異なる。
たしかに、四谷坂町に、先手組組屋敷はあったことはあった。
が、筒(鉄砲)組の4番手---組頭・市岡丹後守房仲 ふさなか
1,000石 着任・寛政元年 当時49歳)のもの。
(青○=下からの坂を含め一帯が四谷坂町。
緑○=筒の4番手・市岡組組屋敷。近江屋板)
長谷川組(弓の2番手)の組屋敷は、目白台。いまの目白台図
書館の前あたり一帯。
池波さんは、『武鑑』の先手組頭のリストの長谷川平蔵のところ
の、△印の下に目白台とあるのを屋敷と読んだらしい。△印は
組屋敷の符号。
(赤○を中心としたブロック内が弓の2番手=長谷川組組屋敷。
新目白坂をのぼりきった三角地帯りの北側 近江屋板)
ついでなので。目白台には3組の弓組組屋敷があった。
下の最右手(東端ブロック)が長谷川組。
・・・先手組屋敷は切絵図では、ふつう[御先手組]と一括して示
されているのに、どうしたわけか、目白台と四谷の左門町だ
けが戸割リに氏名が書かれている。そのために、そこを見逃
す人が多い。
一. 松平左金吾どの、箱根の湯治から帰られたよし。このたび箱根の山を見られて絵を描かれた様子で、いわれるには、「このごろ、栄川(泉)が名人との評判が高いが、どうしてどうして、俺の絵には及ぶまい。正真正銘の山を見ることができたので山の山たるを知って描いた、おれほどに描ける者はおるまい」と自慢。
和歌のこと、天文のことまでも、それはそれは高慢のよし。
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