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2007.09.03

『よしの冊子(ぞうし)』(2)

将軍直属の隠密---御庭番のリポートである風聞書を紹介したので、老中が使った隠密たちのリポート---文章の末尾が「なんとかの由(よし)」で終わっているので、20世紀に公開されたとき『よしの冊子(ぞうし)』と仮称された。

その火盗改メ長谷川平蔵に関連するものを現代文に置き換えて。

よしの冊子(天明8年--1788--8月30日より)
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでしげ 1500石)がいうには、奈良奉行の任期が明けるので、繰上げで自分が任命されると世間ではいっているが、おれには高齢の母親がいるので、遠国奉行にでも発令されたら母が喜ぶまい。この母のためにもどうぞ遠国奉行はご勘弁願いたいものじゃと申しているよし。
 参考:2007年8月29日[堀 帯刀秀隆]
     2006年4月17日[堀 帯刀の任期
     2006年4月19日[堀 帯刀の家系と職歴]
     2006年4月16日[堀 帯刀秀隆]             

一. ただいままで、京都町奉行の用人は年に100両(約2千万円)ほど、取次は年に40両(800万円)ぐらい賄賂がきたものらしい。ところが去年、池田筑後守(長恵 ながしげ 700石 平蔵宣以の1年年長)のところへ住み込んでいる取次が江戸へ寄越した手紙には、
「去年からたったの3両(60万円)にしかならぬ。
悦んで住んでいる甲斐がない」とあったよし。

一. 堀 帯刀のこれまでの勤め方はいいとはいえず、組の取締りがよくなかったことを知っている者は、
「あれでもよい幸せだ。四ツ(午前10時)のお召しでよかろう」
と噂しているよし。
中川勘三郎(忠英 ただてる 1000石。目付)の様子を知っている者はお目付へ仰せつけられてもよろしい人物といっているよし。事情を知らない者は、
「とんだことだ、小普請組頭からお目付とは」
といっているよし。

一. 本役は、山本伊予守(茂孫 もちざね 38歳 1000石 小姓頭取から翌9月に堀 帯刀の後任で先手弓の一番手組頭)か松平左金吾(定寅 さだとら 久松松平の一族 2000石)か、松平庄右衛門(親遂 ちかつぐ 61歳 930石。天明6年から翌7年まで弓組頭)の3人のうちだろう、と申しているよし。

一. 加役(火盗改メの助役)の長谷川平蔵は出精して勤めているよし。高慢することが好きで、なににつけてもおれがおれがというらしい。こんども、この春の加役でのおれの勤めぶりがよかったから本役を仰せつけられたのだ、と自慢しているよし。

一. 堀 帯刀は先手の同役の中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪い。にもかかわらず御役をそのままつづけていられるのは、まず、ありがたいことと思わねば。解任されても仕方がないのに、との評判が立っているよし。

一. 松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人びとがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよし。

一. 左金吾の屋敷は広くて 8,000坪ほどもあるよし。植木好き庭好きのよし。普請も立派で1,2万石の大名もかなわぬほどと。

  【ちゅうすけ注:】
  8,000坪はオーヴァーで、史実では2,500余坪ほどだったらしい。
  現在の港区元麻布3丁目。中国大使館の敷地と麻布消防署が
  その跡地。

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(松平左金吾屋敷 麻布 約8000坪 現在は中国大使館など)

一. 松平左金吾は、ご老中・定信様とご縁がつながっている(同じ久松松平)方だが、とうからあのくらいには成られて当然の人だ、先手では不足なくらいだと申して、ご老中とのご縁で任命されたとは、だれもいっていないようだ。当然の人事だと申しているよし。
 
  【ちゅうすけ注:】
  松平左金吾定寅は、天明8年9月28日に、先手鉄砲組
  頭を拝命。
  左金吾定寅はいわゆる久松松平の一族。
  松平定信はご三卿の一つ---田安家から久松松平一門で
  ある白河藩へ養子に出された。
  家禄2000石の左金吾が職格1500石の先手組頭へ任命さ
  れたのは、火盗改メの助役となって長谷川平蔵を監視する
  ためとしか解釈のしようがない。
  それほど、定信は、平蔵を嫌っていた気配が濃厚だ。長谷
  川平蔵が同年10月2日に火盗改メの本役に発令されると、
  左金吾も追っかけるように10月6日に助役に任じられた。

一. 長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。
左金吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。
議論で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。
殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口もいいかえせることではない。
まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれでいい納めだろう。なんとしてもかなうはずはない。
長谷川平蔵左金吾どのへ伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。
(出所:松平左金吾の近辺か)

一. 与力同心が急に雨に降られて、傘下駄の無心をしても貸さないようにと町々へ触れが出された。ただし、代価を出すなら売ってやるようにとも。同心どもへの手当は当方でまかなっているから、貸すようなことを決してしないようにと。

よしの冊子(天明8年10月16日より)

一. 殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにいい争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。(出所:松平左金吾の近辺か)

参考:2006年5月12日[松平左金吾定寅の家系]
     2006年5月14日[松左金吾のその後]

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コメント

「現代語訳 よしの冊子」のまとめ、ありがとうございます。
かつて、30回以上にわたって連載されましたが、いちいち呼び出して読むのは、けっこう苦痛(?)でもありました。
こうして、まとめて再アップしていただくと、本で読んでいるようにすらすらと読め、頭に入ってきます。

それに、学者センセイたちの記述のまる信じの、おもしろがり引用でなく、これは定信派からの見方、これは中立などと区分けされているので、偏差を正しながら読めるのが、この「現代語訳」のすばらしいところです。
お手間ですが、最後まで、おつづけください。

投稿: 文くばり丈太 | 2009.08.17 05:44

>文くじり丈太 さん
『よしの冊子』は、松平定信家に秘蔵されていた、隠密たちの膨大な量の報告書ではありますが、信憑性には、いささか疑問があります。
長谷川平蔵という一つの支柱を立てて、それをどう見ているかで、内容のレベルを判断すればいいのです。

もちろん、長谷川平蔵でなくても、自分が知っている人物を支柱にしてたもいいでしょう。

それへの評価によって、リポーターの質の良否を判断していくのです。

まあ、平蔵と同時代の史料がきわめて少ないのですから、その意味では得がたい史料とはいえます。

膨大なリポートの中から、平蔵関連のものを抜きだすのは、1升の米にまぎれこんでいる砂の1粒をとりだすような作業でした。
京極高久関連のものも抜粋しました。藩主だった丹後の峰山町史家に送ってあげてよろこばれました。

投稿: ちゅうすけ | 2009.08.17 14:18

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