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2007.10.03

『よしの冊子(ぞうし)』(31)

『よしの冊子』(寛政3年(1791)4月21日つづき)より

一、森山源五郎孝盛 たかもり 54歳 )はこれまた幸せ、ほかにお目付になりそうな人もなかったかと沙汰されているよし。御徒頭では、植田十郎兵衛が世話を焼き精勤しているところを、森山に先をこされたので、大いに不平に思っているよし。
  【ちゅうすけ注:】
  長谷川平蔵の政敵。寛政3年5月11日、目付。300石と廩米
  100俵。
  冷泉家の門人ということで、松平定信に目をかけられて、伊豆・
  相模・安房など江戸湾の視察に随行。
  長谷川平蔵が死の床にあるとき火盗改メ代行に就き、その死とと
  もに本役。
  エッセイ集『蛋(あま)の焼藻(たくも)』で、前任の平蔵の仕事
  ぶりを口をきわめて非難。
  森山源五郎の家譜

  植田十郎兵衛は、横田十郎兵衛延松(ながとし)の誤記。46
  歳、200石廩米100俵。
  徒(かちの)6番手の組頭。森山孝盛に2年遅れて、寛政5年に
  西丸目付。


一、非番の御先手に召し捕られたがいまだに吟味中の者の中の4人は、よく盗賊に出た模様。
夜盗などを召し捕った与力同心の名前を書きだすようにと、御先手頭へも仰せ出されたよし。
中山下野守(直彰 なおあきら 弓の8番手の組頭 76歳 500石)組の横井三郎右衛門の手の者から一人、うまく盗賊を召し捕ったよし。三郎右衛門はかつてから召し捕りものの巧者として高名の者のよし。
御先手へ銀子を下されたのは、いままでに例がないので、一統がありがたがっているよし。

一、長谷川平蔵の倅(辰蔵)を御見分の節、武芸の分はみなお断りをして、素読講釈のみ御見分を受けたいと申し出があったので、先日、若年寄方の御宅で見分されたよし。

一、長谷川(平蔵)がづく銭(鉄銭、ババ銭)を鋳つぶしたついでに銅銭も鋳つぶしたとの噂があり、このこと、平岩次郎兵衛が何ほどか知っているらしいが、勘定奉行が取り上げるほどのことでもないと、むなしく控えいるとのこと。
  【ちゅうすけ注:】
  平岩次郎兵衛親豊(ちかとよ 廩米100俵。御勘定。54歳)。

一、米価が上がったので、それにつれて諸物価もにわかになんとなく上がり、鳥目(貨幣価値)はすこし下値になったもよう。
両替屋一統へ、文銭10貫文(文銭1万枚。1万文。2両前後)ずつ差し出すように長谷川(平蔵)が申しつけたところ、文銭を手持ちしていない者は、耳白(みみじろ(注:正徳4年(1741)、亀戸で鋳造された寛永通宝。外輪が広いのでみみひろが訛ったと)を出した者もあったよし。
これで、銭相場がまたまた高値に戻ったと。
だいたい銭の値段は落ち着いたのに、物価を引き上げるのは不届である、と沙汰しているよし。

一、米屋一統へ、(100文で)1升2合より高く売ってはならないと、長谷川(平蔵)が申し渡したよし。
かつまた、舂米屋一統へは、貸し臼一つにつき御払(下げ)米3俵ずつ渡すから、代金持参で浅草の御米蔵へ出頭するようにと長谷川平蔵が申し渡したが、現金払いの上に、わずか10俵や15俵の米に車賃をかけ、さらに1升2合で売ったのでは引きあわない、と米屋どもが従わなかった。
そこでこの節、武士町人とも、あまりに下をいじりすぎると、長谷川のことをよくはいっていないみたい。

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