相良の平田寺(2)
相良ウォーキンを反芻してみて、何か、大事なことを見落としているような気がしていた。
気がついた。
平田寺だ。
(平田寺前景)
第42代目にあたるという老禅師(この称号は、生前には与えられないものらしいが---)は、開創が弘安6年(1283)年と由緒が古いこと、聖武天皇が当時の12大寺へ賜った勅書のうちの一つがめぐりめぐって当山にたどりついて国宝に指定されていること、
(聖武天皇の勅書 部分)
石の宝塔のことなどは話してくださった。
ところが、寺は宝暦年間に焼失したが、藩主・田沼意次(おきつぐ)の支援によって、天明6年(1786)に、本堂が再建されたという史実は、聞かなかったような気がする。
(平田寺の本堂・外観)
参詣・見学の時間が足りなくて、本堂の伽藍へは案内されなかったせいもあろう。
本堂の左手には、藩主のような高位者だけが出入できる玄関も造りつけられていたから、それを解説する時に聞く予定になっていたのかも知れない。
あるいは、リーフレットに印刷してあることだから省略されたか。
鬼平と田沼意次の関係にまで連想が及ばなかったか。
ただ、天明6年といえば、田沼意次と、門閥派勢力の代弁者・松平定信との、権力をめぐる暗闘がつづいていた時期である。
その時期、いろいろと軍資金も必要であろうに、そんなことはおくびにも見せず、香華寺から本堂を再建---といわれてきたら、ぽんと何千両かを出さなければならない藩主の苦労を想いやらざるを得なかったのである。
当時の寺は、領民の心の拠(よ)りどころの一つであったはずだから、領民統治の方便でもあったろう。
それで、意次のほうから、平田寺に申しいれたのかも知れない。
そのような心遣いのできる人物だったから、小禄の家に生まれたにもかかわらず、将軍の側用人、老中までのぼりつめられた。
長谷川平蔵宣雄の才能を見抜いて引きあげたのも、意次の人物鑑識眼と心くばりの一面であろう。
藩主たるもの、器(うつわ)が大きくないと慕われない。
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コメント
あの禅師、宝蔵に入るときは、多分寺中の全ての鍵でしょうか、30以上はあると思はれる鍵を束ねて持ってきて、あれこれ試して開くまでは覚束ない様子でしたが、説明になると雄弁で、ユーモアもあり時間のたつのが早かった。禅師の田沼意次観も聞いてみたかったですね。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.11.19 14:49
そうでたね。
話しなれていらっしゃる感じでした。
長くなりすぎたので、そのまま失礼しましたが、本堂を拝観すべきだったかもしれません。
とにかく、いい経験でした。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.19 18:45
http://blogs.yahoo.co.jp/drymonh/folder/626384.html
平田寺のこと「ここ」に書かれていました。
ご覧ください。
因みに、私は相良の住人です。
投稿: デキ | 2010.06.08 21:48
>デキ さん
ほとんど同文のコメントを2通いただきました。誤操作によるものと推察し、1通は消去させていただきました。
ご紹介のURLは、平田寺に関するものではなく、コンサートのスケジュールのように拝見しました。
ここは、長谷川平蔵とその関係者(例:田沼意次など)ついての考察をすすめています。誤解なきよう、お願いいたします。
上記にまつわるコメントは大歓迎です。
投稿: ちゅうすけ | 2010.06.11 05:55