与詩(よし)を迎えに(10)
「む? この匂いは---」
双子山の北はずれ---芦の湯村の近くで、銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、ものが腐っているような異臭を感じた。
「芦の湯の売りものの、硫黄(いおう)の匂いでございます」
阿記(あき 21歳)の声がころころと嬉しげにはずんでいる。生まれ故郷の香りが誇らしげだ。
(箱根七湯 『東海道名所図会』)
(上掲絵の部分拡大)
村のとば口で立ち止まった阿記は、銕三郎に寄りそい、小声で、
「長谷川さま。お願いがございます」
硫黄の匂いに、阿記の髪の香油の香りがまじる。
「なんでしょうかな?」
「村人の口がうるそうございます。わたしと都茂(とも 43歳)は、ここから先に参り、家へ戻ります。長谷川さまは一と息遅れて〔めうがや〕へお入りくださいませ」
「あいわかりました。都茂さん。権七(ごんしち)どのと昼を摂りたいゆえ、2人前の食事を頼んでおいてください。飲み物も忘れずにな」
権七が驚いたような声をだした。
「長谷川さま。あっしに奢ってくださるんで?」
「そのつもりだが---嫌ですか?」
「滅相もねえ。こいつぁ、豪儀だ」
芦の湯村には20軒ほどの湯治旅籠があるが、〔めうが屋〕は、畑宿(はたしゅく)村の実力者・茗荷屋畑右衛門の一族というだけあって、店がまえも広く、もっとも大きい旅籠で、村の入り口近くにあった。
玄関に、阿記が油紙をもって待っていた。
「お腰のものをお預かりいたします」
「えっ?」
「硫黄の湯気(ゆげ)で、錆がつくことがございます。油紙でしっかりとつつんでおけば、大事ございませんのです」
「湯は昼飯のあと」と断った銕三郎が、権七の盃へ酒を注いでいると、宿の主人・次右衛門があいさつに現れた。宿泊の礼をきまり文句で述べたあと、
「先刻は、むすめたちをお助けいただいたそうで、かたじけなく存じます」
「いや、ご亭主どの。礼は、権七どのへ申されよ。権七どのが気やすく応じてくださったればこそ、です」
権七が酒にむせる。
「権七さん。ご配慮、ありがとうよ」
次右衛門が去ると、権七が言った。
「長谷川さま。あなたというご武家さまは、齢に似合わず、人たらしの名人でごぜえやすな」
「たらしてなど、してない」
「長谷川さまのような人あしらいをされちまうと、この権七めにかぎりやせん、どんな荒くれでも、長谷川さまのためなら---と心にきめますぜ」
「そうであって、ほしい」
「そうでありやすとも」
「ま、飲(や)ってください」
食事を終えた権七が、
「お帰りの節、かならずお手伝いをさせてくだせえよ」
「日時を、箱根の関所へ、きっと、伝えておくゆえ、頼みましたぞ」
「そうそう。いわでものことでやすが---。あの、阿記とかいうご新造さんも、大年増の都茂さんも、長谷川さまにぞっこんの気配ですだ。くれぐれもご要心を---」
「なにを愚かな---」
「いやぁ、この〔風速(かざはや)〕の権七、女を観る目はたしかでさあ」
「一泊だけの客です。気をまわしてはなりません」
「ま、湯蛸(ゆだこ)になって食われてしまわねえよう---せいぜい、気をおつけなすって。では、お帰りをお待ちしとります」
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