与詩(よし)を迎えに(26)
「銕(てつ)---長谷川さま、お芙沙さんのこと、お伝えしました。私どもは、〔甲州屋〕さんでお待ちしていますから、どうぞ、ごゆっくり。夕餉(ゆうげ)までには、かならず、お戻りくださいませ。おほほほ」
阿記(あき 21歳)は、都茂(とも 44歳)と藤六(とうろく 45歳)と馬力をうながし、角を曲がって去って行った。
都茂は、もう、藤六にぴったり、寄りそっている。
残された銕三郎(てつさぶろう 18歳)は、与詩(よし 6歳)の背中を押して、三島宿の本陣〔樋口〕伝左衛門方へ向かうしかなかった。
「お芙(ふ)---内儀どのへお取次ぎを願いたい。江戸の長谷川です」
帳場の番頭とおぼしい男へ言った。
男は、立ってきて、
「これはこれは、長谷川さま。いつもご贔屓を頂戴しており、ありがとう存じます。お父上からの丁重なご書面と宿料もお預かりしております。家内ともども、お待ち申しておりました。あ、手前が、九代目を継ぎました伝左衛門でございます。お見知りおきください」
(こいつか、お芙沙の入り婿は。ずいぶと頭が薄いが、いったい、幾つなんだ)
声を訊きつけたか、座敷を左右に分けている三和土(たたき)の広い通路の奥から、芙沙があらわれた。
(国貞『正写相生源氏』部分)
「まあ、まあ、長谷川さま。お前さん、つまらないおしゃべりをつづけていないで、早速にお部屋へご案内なさって。長谷川さま。喉でも湿らせていてくださいませ。すぐに参上いたしますから」
(すっかり、本陣の女主人だ。20代の婦(おなご)にとって、4年という歳月は伊達にすぎてはいない。しかし、話す時にできる左頬のえくは、あのときと変わっていない)
「あ、与詩ちゃんですね。与詩ちゃん、今夜は、私が母上ですからね」
与詩は、きょとんとしている。
(母か。4年間、お芙沙は---少年として忘れることのできない、おれだけの仮(かりそめ)の母であったが---いまの与詩に言った言葉からすると、もう、あの一夜のことはこころから消しているのであろうな)
銕三郎は、すっきりしたような、ちょっと残念のような気分になっていた。
亭主・伝左衛門と入れ替わるようにして、芙沙が部屋へ入ってきた。
「お久しゅうございました」
「その節は、ありがとうござった。これは、先代の伝左衛門どのへの香華のつもりです。お供えくださって、銕三郎の深い深い供養の気持ちをお伝えください」
「それは、ご丁寧に。こちらは、お父上がお届けくださっていた宿料でございます。銕三(てっさ)さまが、行きも帰りもご宿泊くださいませんので、お返し申します。ほんと、すっかり、お見限りなんですから---」
「あ、それは、与詩の宿泊料にあててください」
「さようでございますか。それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「ふさ(芙沙)のおばちゃま。おばちゃまがよし(与詩)の、おたあさまだと、あにうえのおたあさまにもなる---のでしゅか?」
「あら、与詩ちゃんは、お賢いこと。そうですよ、おばちゃまは、銕三郎さまのおたあさまでもあります」
「これ、お芙沙どの。与詩に、よけいなことを教えては、困る」
「あにうえ。おたあさまには、もっとていねいなことばづかい、しないと、いけませぬ」
「そうであった---ありましたな。はははは」
「ほんに、銕三さま。ふふふ」
「きゃ、きゃ、きゃ」
こちらは与詩の笑い声である。
芙沙は、置かれている盆から湯呑みをとって、お茶でも飲むようにあけた。
銕三郎も手にしたが、口にあてる前に匂いでそれが冷や酒とわかり、唇を湿らせただけで返す。
「芙沙どの。与詩が、着物を自分で着ることができるようにしつけていただけると、助かるのですが---」
「脱がせるほうは、鉄三さまがお得意ですものね」
「冗談ではないのです。これから、江戸まで、数日泊まります。男2人の中なので、ひとりで着てくれないと困るのです」
(お芙沙の、匂うような上品さが薄れて、代りに身についたのは、豊かな肉と欲らしい)
銕三郎は、芙沙を目で誘って部屋をはずして、与詩のお寝しょうのことを打ちあけ、着替えの包みにおむつも入っていることを告げた。
「はい。あれから私にも、女の子がさずかりましたから、おむつのあて方はわかっています」
「お子は、幾つ?」
「ご心配なく。2つで、残念ながら、銕三さまが父親ではありませぬ。それより、お阿記さん、気性のいい方ですね。妹にしたいくらい。大事にしてあげてくださいな。与詩さんは、一と晩といわず、三晩でも四晩でもお預かりしてさしあげますから」
「そのこと、拙のほうからお願いするつもりでおりました。ニた晩、お預かりいただけましょうか。明後日の明けの六ッ半(7時)に、山駕籠で当本陣へ迎えにくるように、権七(ごんしち)という荷運び雲助の頭(かしら)格に申しいれてあります」
「権七---とおっしゃいますと、〔風速(かざはや)〕を通り名にしている、あの権七でございますか?」
「ご存じで?」
「大名家に箱根越えの人足(にんそく)たちを誂えるのも、うちの商売の一つでございますから。いえ、あの権七は、とくべつです。うちの女中をしていた婦(おんな)に手をつけて、三島大社の大鳥居向いあたりで、飲み屋をやらせているのです」
「ほう。これは奇遇」
「だから、明日の晩は、その飲み屋泊まりでしょう」
「では、間違いなく山駕籠を持ってきてくれますな。で、その飲み屋の屋号は?」
「なんでも、〔お須賀〕とか---座敷女中だった妓(こ)の名前です」
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