与詩(よし)を迎えに(36)
小田原宿から大磯宿までは、4里(16km)。
さしたる山道もなく、馬上の阿記(あき 21歳)と与詩(よし 6歳)は、母子のようにも見えるほど、打ち解けた、他愛もない会話をつづけている。
(おんなというのは、与詩のような幼い齢ごろから、もう、おしゃべりが止まらないんだ)
馬の横を後になり先になりしてあゆんでいる銕三郎(てつさぶろう 18歳)の発見である。
「長谷川さま。大磯の旅籠は、どうなさいます?」
小いそ村(鴫立沢 しぎたちさわ)で、〔風速(かぜはや)〕の権七(ごんしち 31歳)が訊いてきた。
(鴫立沢 鴫立庵『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「阿記どのを伴っての本陣・〔尾上〕市左衛門方というわけにもいかないでしょうな」
「あっしの顔見知りの、〔鴫立(しぎたつ)屋〕利助ではいかがです? 本陣や脇本陣とは格式も風格もどっと落ちますが、落ち着くことは落ち着けます。本街道から一本、山側の道路に面しておりやすが---」
銕三郎はうなずいて、
「阿記どの。権七どのが、〔鴫立屋〕という旅籠をおすすめだが、いかがです?」
(秋暮鴫立沢 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ
旅籠の名前も気に入りました。泊めていただきましょう」
「阿記どのは、学があるんだなあ」
「とんでもございません。鴫立沢(しぎたつさわ)は、嫁(とつ)いだ平塚宿にも近いし、『新古今』に選ばれている西行上人さまの名歌ですから、覚えていただけです」
さっそくに与詩が教えてくれと頼んだ。
「このあたりの秋の景を詠んだのですよ」
「あきって、あき(阿記)あねうえ(姉上)のことですか?」
「こころなき みにも あばれば---」
「与詩さま。あわれは---です」
「でも、あき(阿記)あねうえ(姉上)は、あにうえ(兄上)のことがだいす(大好)きだから。あわ(哀)れではありましぇん---せん」
阿記が顔を真っ赤にしている。躰中がほてったらしい。
銕三郎は苦笑し、権七と藤六は笑っている。
大磯宿の入り口で、追っかけてきた、20歳前の仙次(せんじ)という若いのが、
「お頭(かしら)。〔ういろう〕の猫道の汲み取り戸のことがわかりました」
という。
「これ、仙次。場所がらってものを心得ろ、こんなところで、バカでかい声でしゃべるんじゃねえ。〔鴫立屋〕で、ゆっくり、長谷川さまに、お話し申しあげろ」
「仙次どの。遠路、ご苦労でした。旅籠で気つけを一杯おやりになってから、承ります」
銕三郎の応対に、権七がしきりに頭をふって感じいっている。
「仙次どの」と奉られた当の本人も、すっかり気をよくして得意顔になっている。
藤六は、〔尾上〕市左衛門あての銕三郎の請(こ)い状をもって、本陣へ向かった。父・宣雄が前もって送っておいた宿泊代から、取り消し手数料を差し引いた分を受けとりにまわった。
(大磯宿(部分) 『東海道分間延絵図』 道中奉行制作)
〔鴫立屋〕では、権七に割り当てられた部屋で、仙次が湯呑みの冷酒をすすりながら調べたことを報告している。
小田原の薬舗〔ういろう〕の東の猫道の閉まりっぱなしの戸は、厠の汲み取り口へ通じているもので、毎月1回、月始めに、城下に接している一色村の百姓・八蔵がきたときだけに開け閉めするのだという。
この月も、八蔵は月初めにきて、汲んでいった。
そりからこっち、賊が侵入した夜まで、落し桟を動かした者はいない。戸の下の厚い木枠の穴へ落ちて錠がわりの働きをしている縦の落ち桟は、盗賊たちが立ち去ったあと、しっかりと下の穴にはまっていた。
それで、調べにきた町奉行所の同心へも告げなかったのだが、仙次に訊かれて改めて検分してみたら、縦におちる桟を、上げた時に横から留める留め木口と、落とした時の桟を錠がわりに留める木口に、巧妙な仕掛けがほどこされていることがわかった。
両方の木口の中に四角い鉄の塊が入っているのが見つかったのは、ほかの雨戸の木口とくらべると、動かす時の手ごたえが重いように感じられると、下僕が気づいたたからである。
仕掛けた者は、木口のすべりをよくするために、溝に蝋を薄く塗っていたという。
つまり、外から、戸の板ごしに、強い磁石で木口を動かすことができたわけだ。
「〔ほうらい〕が、何かの普請で、大工を入れたのは何時だって言ってましたか?」
「4年前の春だそうです」
(あのとき、〔荒神屋〕の助太郎に小田原宿の松原神社で会った)
「細工をした者は、多分、流れ大工でしょう。その仕掛けを、磁石ともども、盗賊の頭に売ったのです。普請に入った棟梁に、その流れ大工のことを訊くのはいいが、棟梁に疑いをかけてはならないと、〔ほうらい〕藤右衛門どのに、江戸の火盗改メ・本多紀品(のりただ)どのの相談役の長谷川宣以(のぶため)が、しかと念を入れていたと、ご苦労ですが、申しつけてください」
急につくった威厳に、同年輩の仙次は恐れ入り、権七はたのもしげに銕三郎を見やった。
(しかし、〔荒神屋〕助太郎の仕業とすると、盗賊の頭分としての助太郎は、さして、大物ともおもわれないな。逃げ口があの狭い猫道一つだと、まさかのおりに、一人ずつ躰を横にしないと通れまいから、ほとんどの配下が捕縛されてしまう。そういう危険をともなった儲け口を買うようでは、な)
仙次をねぎらうために、食事は、権七の部屋で、藤六も呼んで、とった。
与詩は、阿記の部屋で、ぼろぼろこぼしなから食べている。
部屋へ帰り、与詩が寝息を立てているのを確かめてから、寝着をもち、離れた突きあたりの阿記の部屋へ行って着替えた。
臥(ふ)せていた阿記が寝着1枚で起きて、銕三郎の衣服を畳む。
「髪を切ったのか?」
「はい。明日は、平塚を通ります。あさってには、鎌倉ですべて剃りおとします。切って黒頭巾でまとめたほうが、明日の朝、結う手間もはぶけますから」
手荷物の中から、いつだったか、〔めうがや〕に湯治にきた熊野の比丘尼衆の一人が置いていった黒頭巾を出して、阿記はかぶってみせた。
(熊野比丘尼の黒頭巾 『近世風俗志』(岩波文庫))
「もちろん、あす、〔越中屋〕の前を通りましても、銕さまと権七さんがごいっしょですから、恐れることはなにもないとはおもいますが---」
そういって、銕三郎をいざなった。
銕三郎の手を乳房に導いて、
「与詩さまと湯へ入りましたら、しげしげと下の茂みをごらんになって、『たけ(竹 府中城内での乳母)のよりこ(濃)いね』ですって」
「そうか」
「ご覧になりますか?」
「いや。そういう趣味はない」
「それからね。乳を吸わせてほしいって。母上が産後、すぐにお亡くなりになったのだそうですね」
「拙も吸いたい」
「まあ」
(国芳『葉奈伊嘉多』)
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コメント
『東海道名所図会』と『中仙道名所図会』は、企画者・籬島が京の人だから、京を発して江戸へ下る。だからほとんどの絵は、左が京側、右が江戸側---と思っておけばいい。
鴫立沢もそう。
箱根駅は逆だったが。
『東海道分間延絵図』と、広重『東海道五十三次』は、江戸を発して京へ上る。
投稿: ちゅうすけ | 2008.01.30 18:58
>『東海道名所図会』と『中仙道名所図会』は、企画者・籬島が京の人だから、京を発して江戸へ下る。だからほとんどの絵は、左が京側、右が江戸側---<
そうなんですか、これからはその様に絵を眺めてみます。風景が全て逆になりますね。
「鴫立沢」は今も大磯の海岸近くに「鴫立庵」が残り西行の古歌「心なき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」が佐々木信綱の筆で書かれた碑がたっています。
投稿: みやこのお豊 | 2008.01.30 22:46