〔荒神〕の助太郎(5)
「芦の湯へ、なにごともなく、お送り申してめえりました」
さすが、箱根の荷運び雲助の主のような〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)である。1刻(いっとき 2時間)もかけないで戻ってきた。
箱根宿(はこねしゅく)から芦の湯村落まではほぼ1里(4km)---往路は阿記(あき 21歳)づれだから、半刻(1時間)以上を要したろう。帰路は小半刻(30分少々)でこなしている。
「駕籠衆や尾行(つけ)の若い衆への酒手は、十分に渡りましたか?」
銕三郎(てつさぶろう 18歳)が確かめた。
「多すぎるほどの、心づけでごぜえました」
「では、権七どの。もし、あとの仕事にさしつかえがなければ、ちょっと、呑(や)って行きませんか? 小田原宿の薬舗〔ういろう〕に入った賊のことも、もう少しお聞きいたしたいのですが---」
(小田原・薬舗〔ういろう〕 『東海道名所図会』)
城下町・小田原宿を東西に貫通している東海道に面して繁盛している薬舗〔ういろう〕を、『東海道名所図会(ずえ)』は、以下のごとくに紹介している。
小田原・北条氏綱(うじつな)の時、京都西洞院(にしのとういん)錦小路外良(ういろう)という者この地に下り、家方透頂香(とうちんこう)を製して氏綱に献ず。その由緒は、鎌倉・建長寺の開山・大覚禅師、来朝の時供奉(ぐぶ)し、日本へ渡り、家方を弘(ひろ)む。氏綱はこれを霊薬とし、小田原に八棟(やつむね)の居宅を賜り、名物として世に聞ゆ。
その〔ういろう〕に、3日前に盗賊が入り、当主・藤右衛門を抜き身でおどして金蔵を開けさせ、800両余の金を持ち去ったという。(このころの1両は、当今の16万円にあたろう)。
宝永(1704~10)小判
【ちゅうきゅう注:】 池波さんは、『鬼平犯科帳』の連載をはじめた1968年ごろ、1両を4万円ほどと換算していたが、連載が終わる1990年前後には20万に引き上げていた。バブルのものすごさも類推できるが、大家となった池波さんの金銭感覚もこれでうかがえる)。
とにかく、1億円を超える盗難である。
小田原藩の町奉行所は、あげて探索にあたったが、なんの手がかりもつかめていないという。というのも、すべての戸締りはしっかり錠がかかったままで、どれも開けられた気配がないので、12~3人もの者が、どこから、どうやって侵入したかもわかない。
また、黒装束の上に覆面した賊たちは、ひとことも口をきかず、当主への指示はすべて、あらかじめ紙に書いて用意していたもので伝えたという。
権七の説明を聞いて、銕三郎は、
「無言のわけは、言葉ぐせから出生地を割らさないためでしょう。しかし、そのことも有力な手がかりですね。それほど用心深い盗賊の前例が報告されているかどうか、江戸の火盗改メに速便(はやびん)で問い合わせたのでしょうね」
「さあ。そこまでは聞いていませんがね。うっかり聞き耳を立てると、こっちが疑われかねませんからね。雲助稼業はつらい立場です」
「しかし、権七どのには証(あか)しあるのでしょう?」
「もちろんでさぁ。あの晩は、たまたま、三島のお須賀の店にいて、何人もの常連客が見ていてくれていますから---」
「それは重畳でした。錠前の謎は、今晩じっくりと考えてみますが、〔ういろう〕では、店や奥の使用人は、いまでもやはり、京都から採っているのでしょうか」
「さあ、どうなんでしょう」
銕三郎の頭からは、京の荒神口で太物商いをやっているという〔荒神屋〕助太郎の姿が浮かんでは消えている。
【参考】2007年7月14日~[〔荒神〕の助太郎] (1) (2) (3) (4)
2007年12月28日[与詩(よし)を迎えに](8)
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