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2009.06.14

宣雄、火盗改メ拝命

徳川の正史ともいわれている『徳川実紀』の、明和8年(1771)10月17日の項に、こう記されている。

○十七日先手組頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる。

もっとも、池波さんは、この条を見ておられたかどうか。
というのは、、『寛政重修l諸家譜』編纂のために、後年、辰蔵(たつぞう 家督後、平蔵宣教 のぶのり)が幕府に提出した[先祖書]には、このことが記されていないからである。

その[先祖書]は、長谷川本家の後裔である長谷川雅敏さんが、国立公文書館が所蔵しているものから、コピーをおとりになったものをいただいた。

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さらに、これを釣 洋一さんが活字化なさった。
横書きで一部を写してみる。

一、七代目  生  武蔵  長谷川備中守宣雄
         養母  無御座候
         実母  元水谷古出羽守 徒三原七郎兵衛女
  右備中守宣雄義
  延享五戌辰年正月 権十郎宣尹義病気
  差重 男子無御座候ニ付 従弟之続を以
  同月十八日 養子奉願置 同十日卒 同年
  四月三日 養父権十郎宣尹跡目賜旨 菊之間
  本多伯耆守伝 小普請組柴田七左衛門支配
  同年閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
  組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
  之節
  宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命
  明和二年乙酉年四月廿一日 御手先御弓頭被命
  安永元壬辰年十月十五日 京都町奉行
  被命 同年十一月諸大夫被命

つまり、職歴では、先手弓頭から一気に京都町奉行へ飛んでいる。

これをそのまま受けたか、『寛政譜』も、宣雄(のぶお 53歳)の火盗改メ拝命を省略している。

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しかし、宣雄が火盗改メ・助役に命じられたことは、『柳営補任』を確認するまでもなく、まちがいないため、これまでもさまざまな機会に報じてきた。

参照】2007年1月17日[ちゅうすけのひとり言] (
2007年9月13日[『よしの冊子(ぞうし)』] (12
2008年2月18日[本多采女紀品(のりただ)] (
2009年2月21日[隣家・松田彦兵衛貞居] (http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/02/post-056f.html)

宣雄は、用部屋へ呼ばれ、月番若年寄・酒井飛騨守忠香(ただか 57歳 越前・敦賀藩主 1万石)から申しわたされた。
もちろん、事前に目付から打診があり、謹んでお受けすると答えてあった。

当夕は、長谷川家一門の当主たちが祝辞をのべに集まり、酒宴がお開きとなったのは、六ッ7(午後7時)をまわっていた。
武家の夕食は、4時すぎから始まる。

客たちが退けてから、銕三郎(てつさぶろう 26歳)と身重の久栄(ひさえ 19歳)が辰蔵(2歳)をともなって祝いのことばを言上した。
「父上。お役目のお手伝い、いかようにもいたしますゆえ、どのようなことでもお申しつけくださいますよう」
つづいて、久栄が、
「お舅(しゅうと)さま。このたびの大役、おめでとうございます。若に火付人(ひつけびと)の2,3人も捕縛させて、京都町奉行へとご栄進の上、久栄辰蔵に京見物をさせてくださいませ」
言いはなったものである。

嫁に甘い宣雄も、さすがに苦笑で応じ、
「当家の家系には、遠国(おんごく)奉行にまで上りつめた者はおらぬゆえ---」

遠国奉行はおろか、宣雄がこれまでに就任してきた小十人頭、先手組頭といった役職にすら就いていない。
いずれも両番(書院番士と小姓組番士)のヒラのまま終わっている。
病気がちだった者、勤務をはすにみていた者、出世よりも己れの趣味を優先させていた者がつづいていた。
先祖が、今川方からの主(しゅ)替えということもあったかもしれない。
(いや、これは理由にならないであろう、武田方からの1000家近い帰順組の中には、けっこう要職についている家もあるし、北条方からの者にも例はある)

ところが、一年もしないうちに、久栄の予想どおりの運びになるとは、このときだれも予見していなかった。
 

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