銕三郎、先祖がえり (3)
「長谷川の若さま。こんどは、手前のほうから、お教えをいただきとうございます」
茶問屋〔万屋〕の主(あるじ)・源右衛門(げんえもん 50歳)がきりだした。
蒲焼をつついていた銕三郎(てつさぶろう 26歳)は箸をおき、笑顔の源右衛門を眸(み)た。
顔は笑みをたたえているが、目は真剣というか、もっとおもいつめている。
「なんでしょう?」
「茶葉の売り上げを増す妙法は、ございましょうか?」
「売り上げを増さねばならない、さしあたっての事情でもあるのですか?」
「さしあたってのことではございません。仕入れている茶園のほうから、畑をどのような割合でひろげていいか、と訊かれておりまして、な」
考えるふりをしながら、
(『孫子』にいわく。敵の情を知らざる者は、不仁(ふじん 職務に不忠実)の至りなり、とあるのは、このことだな)
口をひらいた。
「〔万屋〕どの。ご商売(なりわい)の、いちばんの障(さわ)りなっているものは、なんですかな?」
「もっとも大きいのは、ずっとむかしにだされた、農家は茶をひかえるようにとのお触れが、いまだに取り消されておりません。
100年以上もたったいまとなってみれば、あってなきがごときお触れですが、後生大事に守っている在所がございます。あれを、ご公儀がお取り消しくだされば---」
「といって、江戸の朱線引きの内側では、農家はほとんど残っていまいに---」
「長谷川さま。そうではないのです。〔万屋〕は、関東一円はおろか、陸奥のほうにまで卸しております」
「それは失礼した。わかった。こんど、田沼さまにお会いしたら、お触れ用ずみのことを話してもいい」
「長谷川さまは、ご執政格の田沼さまとお親しいのでございますか?」
「ときどき、下屋敷のほうへ、お招きいただいています」
「それは重畳。田沼さまのご領内の相良あたり(現・静岡県牧之原市)も、茶葉の産地の一つでございます」
これは、1ヶ月ほど先の話だが---・
茶問屋の組合から、田沼主殿頭意次(おきつぐ 53歳)の用人・三浦庄司(しょうじ)のもとへ、さっそくに音物(いんもつ)がとどけられた。
三浦用人から呼び出しがあり、神田橋内の役宅へ銕三郎が出向くと、
「長谷川どのの口利きといい、茶問屋の十組(とくみ)の者が陳情にきたが、まこと、銕三郎どのにかかわりのあることかな?」
「まちがいありませぬ。すでに使命を果たしおえているお定書(さだめがき)だかお触書(ふれがき)だかは、早くお取り消しになりませぬと、しもじもが混乱いたしましょう」
「きついことをおっしゃる。じつはな、お耳になされた殿も、笑っておられた。いまの宿老のご領内で茶葉を勧業しているのはうちの殿だけなので、なんとも面映いと仰せられたが、お取り計らいになりました。殿が申されておりましたぞ。さすが、平蔵組頭(宣雄 のぶお 53歳)どののご継嗣だけあり、町方のことがよう分かってござると。はっ、ははは」
【参照】2007年12月19日[平蔵の五分(ごぶ)目紙] (1) (2) (3)
茶問屋十組からは、銕三郎にお礼の志として、〔万屋〕源右衛門と年番(世話役)が、10両(約160万円)を持参したが、銕三郎は受けとらなかった。
安房行きの旅銀が半分以上のこったし、川越藩からも薄謝がきていた。
こちらは、ありがたく受けた。
幕府に知られてもどうということもない金だったからである。
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