目黒・行人坂の大火と長谷川組(3)
「不審な若造を捉えて、浜松町の町会所に監禁しています。もしやして、こんどの大火にかかわりがある者かもしれません」
〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)元締の息・伸太郎(しんたろう 21歳)の言い分に、銕三郎(てつさぶろう 27歳)の胸は高なったが胆力でじっと抑えつけ、すぐさま、平蔵宣雄(のぶお 54歳)の部屋へ告げた。
宣雄は、与力部屋につめていた次席の内山左内(さない 47歳)を呼び、事情を訊くように命じた。
伸太郎によると、延焼をまぬがれた浜松町の家々の前に立ち、悪魔除けの読経をしてまわっている僧がいた。
火がこの家までとどかなかったのは、深い仏恩のゆえと、布施をせがむ。
身にまとっているのが高位の僧衣にもかかわらず、足は汚れており、かかとがひびわれていたので、
「怪しい」
不審とのつげ口があり、〔愛宕下〕一家の若い衆が、饅頭形の網代笠(あじろがさ)を脱がせてみると、まだ20歳にもならないのに、すさんだ顔相の男であった。
とてものことに、高僧の人品ではない。
法名を「新習(しんしゅう)」と名のったが、実名ではない気配でもある。
「お出張りの上、お改めをいただきたく---」
仔細を告げられた宣雄は、すぐさま、与力の一人に騎馬で目黒の安養院能仁寺に仮寓している火元・大円寺の僧を呼びにやった。
伴ってくる先は、いうまでもなく、芝・浜松町の町会所であるが、なるたけ隠密に---と念をおした。
浜松町へは、宣雄自らが、内山次席与力と同心2名、それに銕三郎をつれて出張ったが、近くで分かれて、それぞれ間をおいて入った。
長五郎真秀(しんしゅう)は、はじめは放火を否認していたが、
「まもなく、大円寺の住持どのがお着きになる。さすれば、当日のそこもとの行状、さらにはその法衣のことまであきらかになるわ」
訊問をわざとやめた。
放置された長五郎は、不安を嵩じらせはじめた。
その様子を見きわめた銕三郎が、そっと寄り、
「お主(ぬし)、熊谷宿の生まれと言っているが、石原村の出だな」
ぎょとした長五郎に、
「石原村生まれの女賊(おんなぞく)で、お貞(てい)をしっておるか? そうさな、齢のころは、いまは35,6の大年増だが---。そうだ、初鹿野(はじかの)〕一味では、お松(まつ)と呼ばれていた---」
【参照】2008年8月10日~[〔菊川〕の仲居・お松] (9) (10) (11)
長五郎の目に懐疑の色が走った。
「お主の身元は、もう、割れているのだよ。火事のすぐあと、大円寺の者から聞いて、忍(おし)藩(10万石)の町奉行所へ同心どのが調べに行っておるのだ」
忍藩の藩主は、阿部豊後守正允(まさたか 57歳)で、政庁は忍(現・行田市)にあった。
中仙道の要衝---熊谷宿は忍藩の領内で、西に約1里(4km)の宿場を、町奉行が月に2回巡回しており、長五郎の10代前半の所業(放火歴)も忍の町奉行所に記録されていた。
(栄泉 熊谷宿 八丁堤の景)
石原村は、次の深谷宿とのあいだの集落である。
(栄泉 深谷之駅 芸者達が宿へ呼ばれた景)
「お主が石原村の実家から勘当され、無宿になったことも、調べがついている。無駄なあらがいはやめて、すんなり応えたほうが、火盗改メのお頭がいい感じをお持ちになり、お慈悲もいただけようというものだ」
「そんなつもりじゃなかっただに、江戸の半分が燃えてしまっただ」
「そうだろう。だれだって、江戸の半分も焼きはらおうなどの大それたことはかんがえぬ」
「騒ぎに、寺から金目のものを盗むつもりだっただ」
「ま、そのように、お頭へ、まっすぐに申しのべるがよい。拙が力になってやる」
「あなたさまは?」
「銕三郎という者だ」
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