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2009.12.11

赤井越前守忠晶(ただあきら)(2)

内庭への通用口まで出て待っていた次席与力・脇屋清吉(きよよし 45歳)が、控えの間に招じ、
「いつでしたか、目白台へお越しの節は、お城の勤務についておりまして、お目にかかれませんでした」
「4年前になります。その節は、(たち)(伊織(いおり 52歳=当時)筆頭与力さまに、いこう、お世話になりました」

参照】2009年2月8日[高畑(たかばたけ)〕の勘助](

銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、目白台の組屋敷でうけた好意のかずかずをおもいだした。
あの日は、よく晴れて日陽ざしがまぶしく、目白坂を登るのに、武家屋敷の塀から差し出た枝がつくる日陰をえらんで歩いたことまでよみがえった。

「で、ご用の向きは---?」
「こちらに、〔乙畑おつはた)〕の源八(げんぱち)と申す盗人一味の書留めがあれば、拝見させてただきたいとおもいまして---」
「4年前にお手伝いした元・例繰り方同心の息・白石恭太郎(きょうたろう 31歳)と申す者が、統(の)べております。明朝、出てまいったら、早速に調べさせますが、お届けはいづこへ?」

「昼までに、松造(まつぞう 22歳)と申す若党をさしむけますゆえ、その者にお持たせいただければありがたく---」

脇屋与力は、身の丈が5尺8寸(175cm)はあり、当時としては大柄といえる体型で、顔の造作も大振りであったが、声がやさしかった。

「〔乙畑〕の〔呼び名(通り名ともいう)〕をもっているところからみると、下野(しもつけ 栃木県)の生まれのようですな」
脇屋次席与力にいわれて、銕三郎は、途端におもいだした。

脇屋次席さまは、もしやして、上野(こうずけ)・新田郡(にったこおり)脇屋村(現・群馬県太田市脇屋町)のご出身では---?」
「よくおわかりで。遠祖が由良成繁)氏に従っていたようですが、北条方に攻められたとき(天正12年 1584)に牢人をしたのを、その後、あのあたりを知行された榊原康政公のお引きで、こちらにご奉公しました。それにしましても、脇屋が村名だと、よく、お気づきになりましたな?」

銕三郎は、京都からの帰りには、中山道を選び、高崎城下で宿泊した旅籠が〔脇屋〕であったので、亭主に店名の由来を訊くと脇屋村の赤城社の近くの出と聞かされことを、明かした。

脇屋の姓の出自にふれたことで、次席与力は一挙にうち解けた。
人は、自分のことに関心をもってくれた者にこころをひらきやすい。

安永2年(1773)正月11日に、小十人頭から組頭として着任した赤井越前守忠晶(ただあきら 47歳 1400石)が、すぐさま火盗改メを命じられたので、前任の安部兵部信盈(のぶみつ 50歳 2000石 先手・鉄砲の8番手組頭)組から引きついだが、安部組もほんの9ヶ月ばかり任に就いていただけのことなので、さしたる実績はあげていなかったようである。

弓の2番手の赤井組の面々としても、ほんの2ヶ月前に16年ぶりに火盗改メを命じられたので、致仕・引退している古老から若い者が知恵をまなんでいるところである。

とはいえ、3代j前の組頭・小笠原兵庫信用(のぶもち 53歳=当時)が火盗改メの役に就いた宝暦6年(1756)から9ヶ月のあいだに与力だった者が3名、同心だったのが11名、さいわいにものこっているので、組下のほうは、まずまず、とどこおりはない。

「手前は、菅沼攝津守虎常 59i歳 現・小普請支配 700石)さまが火盗改メをなさっていた、先手・弓の4番手の筆頭与力の村越増五郎 ますごろう 52歳)どのと懇意にしておりまして、長谷川さまの盗賊召し取りのお手柄のほどはずいぶんとうかがっております。わが組のためにもお力をお貸しいただきますよう、組頭どのに申してみようと考えております」

参照】2009年3月19日~[菅沼摂津守虎常] () () () (

「かたじけないお言葉ですが、近々に、跡目のお許しが下りると、両番の家柄でありますゆえ、小姓組か書院番のどちらかへ出仕となり、暇がとれなくなりましょう。それまでの小普請入りのあいだであれば、いつにてもご用命ください」

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032火盗改メ」カテゴリの記事

コメント

ついに銕三郎が、史実の先手・弓の2番手組と関係がつきました。これから史実の与力・同心たちと、小説の彼らとどう折り合いをつけつつ進んでいくか、腕の見せどころといえます。
期待しています、これまで誰もやったことのない鬼平物語になりそうで、わくわくしてきました。

投稿: tomo | 2009.12.11 05:48

>tomo さん
池波さんの鬼平ファン、吉右衛門さんの鬼平ファン、さいとう・たかしさんの鬼平ファンの方はものすごく多いんでが、史実の鬼平ファンとなると、極端に少ないのですね。
このブログは、史実の平蔵がかかわったであろうディテールから連想をふくらませながら、小説のおまさ救出までを推理しています。
史実に触れながら、平蔵が生きていた時代の江戸や幕府の制度などを克明に追うようにしています。
平蔵の視点を通して江戸時代を検証しているつもりなんで、「ものしり」ぶりは極力避けています。
それで成功すればいいのですが、ご覧のとおり、同好の士が少なくて。でも、幕府の役人としてはきわめて変わっていた平蔵の実像を描きたいと苦心サンタンの日々です。
ご声援感謝。

投稿: ちゅうすけ | 2009.12.11 14:31

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