府内板[化粧(けわい)読みうり]
「松造。西両国の聞きこみ人・〔耳より〕の紋次兄ィに、黒船橋北の駕篭屋〔箱根屋〕までお越しを---と、伝えてきてくれ。〔風速(かざはや)〕の親方のところで待っている」
〔愛宕下〕家の玄関脇の部屋に控えていた若党の松造(まつぞう 22歳)に告げた。
この家(や)の息子・伸太郎が気をきかせて、冷酒を湯呑に注いで置いていたが、さすがに、このごろはそういう誘惑にも耐えるようになってきていた。
「そこまで、お供をします」
〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 47歳)がいっしょに玄関をでた。
「万吉(まんきち 22歳)も啓太(けいた 20歳)も、やっと、江戸の水に馴れてきたところです。あれこれ、お役に立つとおもいやす」
「お仕込み、かたじけない。ほんの2ヶ月ほどですむとおもいます」
「2ヶ月が半年になってもかまうもんではありやしやせん。それより、誠心院(しょうしんいん)の比丘尼さまのこと、ご愁傷でございました」
祇園一帯をシマにしている〔左阿弥(さあみ)の円造(えんぞう 60すぎ)からどの程度までとどいているのか?
あるいは、報復を助(す)けてくれた万吉や啓太がことをふくらませてしゃべったか?
「いちばん落胆したのは、〔左阿弥〕の元締さんでしょう。色恋ぬきの善行をたのしんでおられたから--」
「あっしがお世話になっていた時分は、生ぐささがさかんな;お齢ごろで、つぎからつぎへと---いや、余計なおしゃべりをしてしまいました」
「〔左阿弥〕の元締さんの、貞妙尼(じょみょうに)どのへの接し方を見ておると、男として、おのれも早くあのように枯れた齢になりたいとおもわされました」
「そうでしょう、そうでしたろう」
(神泉苑(じんせいえん 現・上京区御池通り門前町)のご老師は、「生きとるうちは、淫欲との戦いや。男もおんなも、比丘も、比丘尼も、な」とのたもうた)
【参照】2009年11月17日[三歩退(ひ)け、一歩よ] (2) (3)
(すると、〔左阿弥〕の円造のあれは、擬態にすぎなかったのかもしれん、な)
「長谷川さま。化粧(けわい)指南師のお師匠ですが、あっしの女房ではいかがでしょう? 祇園でできちまったおんなですが、美しいものを看る目は、かなり肥えているとおもいますが---」
「近いうちにお訪ねします」
「お手数ですが---」
芝口橋をわたったところで、重右衛門は、小頭の〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 35歳)に目くばせし、道を左にとった。
それで、平蔵も、つられて右へ折れ、堀留橋のたもとの船宿で、横川に架かる黒船橋まで舟にした。
権七のところの若い衆に、三ッ目通りの屋敷まで走ってもらった。
結び文は久栄(ひさえ 21歳)あてで、手文庫にしまってある[化粧(けわい)読みうり]を2、3枚、使いの者にわたすように書いた。
〔耳より〕の紋次に見せたほうが話が早いとおもったからである。
紋次は、[読みうり]の商売人だから、一目でことをのみこむはずである。
「権七親方。生業(なりわい)の按配(あんばい)は?」
「ぼちぼちでやす」
「なんだか、一丁前の商い人らしい返事だな」
2人は笑いあった。
紋次がきたら゜[化粧読みうり]の版元の件を話すが、そりの前に---と、
「目はしのきく駕籠舁き(かごかき)を一組、半日1朱(1万円)で借り切るわけにはいくまいか?」
権七は、ぴくりとも表情も変えず、
「よろしゅございやす。で、なにを---?」
一橋北詰に去年あたり開店した〔貴志〕という料理茶屋のかかりつけの駕篭屋に話をつけ、昼すぎから夕刻までその駕篭屋につめていて、〔貴志]から声がかかったら真っ先にうけてもらう。
で、その客の行き先をつきとめてもらいたい。
もちろん、駕篭屋が訊きまわるわけにはいくまいから、聞きこみは〔音羽〕の元締・重右衛門のところにに預けてある万吉と啓太を引き取って、この2人にやらせる。
この2人をここで寝泊りさせてほしい。
「一橋北の料理茶屋が使いつけの駕篭屋といえば、三河町の〔駕篭徳〕でがしょう。同業の集まりで親しくしていますから、話は通じるとおもいやす」
「この1両(16万円)は、〔駕篭徳]へのお土産代わり。〔喜志〕からの客の駕篭賃はそっくり〔駕篭徳〕へわたすことにし、その半分は、拙がもつ」
「よろしいんでやすか? そんなに散財をなさって---。長谷川さまのお遣い分ぐらいでは、〔箱根屋〕はびくしもしやしませんぜ」
「それがな、あの、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)めが、[化粧読みうり]のあがりの半分だといって、5両(80万円)、送金してきた」
「へえ。天変地変が近い---とは、このことでやしょう
「は、ははは」
「へ、へへへ」
【参照】2009年11月27日[銕三郎、京を辞去]
★ ★ ★
週刊『池波正太郎の世界』が届いた。封を切り、いささか、あわてた。
大胆なのである。
お江(ごう)と幸村である。
別所温泉の〔真田の湯〕の中である。
裸躰である。
小説に描かれて一気に有名になったスポットの
トップは、熱海海岸の〔貫一・お宮の松〕
2番がこの〔真田の湯〕であろう。
ぼくは4回、つかりに行った。
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コメント
仕掛人藤枝梅安、H18、3月に「長谷川平蔵のルーツを訪ねて」で梅安生誕の地を訪ねている、神明宮の大きな銀杏の木の下の小さな家。
H16,5月真田の里「上田と別所温泉を旅して」上田北国街道沿いの「手打ちそば刀屋」のそばが美味しかったこと、別所温泉での「真田の湯」、北国観音、常楽寺、信濃国分寺等々、3,4巻を読みながら鬼平熱愛倶楽部で歩んできた当時の資料を見ながら楽しんでます。
投稿: 豊麻呂 | 2010.01.09 09:40
>豊麻呂 さん
週刊『池波正太郎の世界』をお手にとっていらっしゃいますね。
藤枝梅庵の誕生の地も、みんなで行きましたね。地元の池波ファンの方たちがそんな標識を立てていらっしゃいました。もっともアジサイの茂みで、春から夏は見えにくくなりますが。
このブログでは、〔五十海(いかるみ)〕の権平の項にそのことを記しています。
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2004/12/post_2.html
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.10 02:23