一橋家老・新庄能登守直宥(なおずみ)(4)
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「たったいま、おもいついたのでいうのだが、ご老中・田沼(主殿頭意次 おきつぐ 56歳 相良藩主)侯も、ご舎弟の故・能登(守意誠 おきのぶ 享年53歳 800石)も、有徳院(吉宗)さまにしたがって江戸城入りなさったのはご先代で、主殿頭さまも、能登さまも、いってみれば、ご家人(幕臣)としては2代目ということになる」
平蔵(へいぞう 29歳)をいい分をうけた里貴(りき 30歳)も、そうおっしゃると、寄合の藪 主膳正忠久(ただひさ 55歳 5000石)も2代目だと証言した。
「有徳院さまのお側をおつとめになった有馬(兵庫頭氏倫うじのり 享年68歳 1万石)家は5代目だし、加納(遠江守久通 ひさみち 享年76歳 1万石)さまのところは2代目半です」
「なんだい、その2代目半というのは?」
「2代目の久堅(ひさかた)さまは、まだ64歳なのに、大岡(出雲守忠光 ただみつ 享年52歳 2万石)さまのご次男の久周(ひさのり 22歳=安永3年)さまがご養子におはいりになったものですから、すっかりお老(ふ):けこみになったとの噂です」
「それで、2代目半とは、世間の口の毒はきついというか---}
【ちゅうすけ注】このときから21年後の寛政7年(1995)5月6日---平蔵が没する4日前、将軍・家斉(いえなり)は、宣以の病状が重いことを知り、見舞いとして、渡来の超高貴秘薬・〔瓊玉膏(けいぎょくこう)〕をお側・加納遠江守久周に預けた。
長谷川家からは、嫡子・辰蔵が加納家へ参上し、拝領した。
2006年6月25日[寛政7年5月6日の長谷川家]
里貴は、ほかに数人の高禄の紀州衆の名をあげた。
西丸の書院番頭をつとめている渋谷隠岐守良紀(よしのり 50歳 3000石) 2代目
徒の組頭の桑山内匠政要(まさとし 52歳 1000石) 3代目
西丸の小納戸組の市川十次郎清移(きよのぶ 37歳 1000石) 3代目
「拙は、有徳院さまが8代をお継ぎになってから数えると、4代目となる。は、ははは」
里貴は、平蔵が軽く笑った真意をはかりかねたように、小首をかしげて瞶(みつめ)た。
「田沼侯は別として、紀州衆も、2代目以降ともなると、少々のことでは家禄は増えないから、役高の多い役職をあさるということだな」
「そういうことで、藪さまのお働きが重宝ということでしょう」
「茶寮〔貴志〕の働きは、そんな単純なことではあるまい?」
「なんとお察しですか?」
里貴の瞳が、澄みきった。
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