亡父・宣雄の三回忌
(旧暦)安永4年(1774)6月12日は、現代なら7月中旬であろう。
江戸は、梅雨が明けきり、まぶしく輝く入道雲が盛り上がっている季節であった。
その七ッ(午後4時)すぎ---。
東本所三ッ目通りの長谷川平蔵邸では、読経を終えた妙典山戒行寺からから招かれた日選(にっせん)老師が、駕篭に身をあずけ、参会客たちの見送りのあいさつをうけていた。
八代当主であった備中守宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の経をあげ終え、帰るところであった。
老僧の駕篭が正門をくぐり、新大橋へ通じている通りのほう、左へ折れたのを見とどけると、一同は仏間へ引きとり、門扉が音をたてて閉ざされた。
武家方では、ふつうは表門扉は閉めておく。
公儀筋の使者を迎えたときなどでないと、ふだんは大扉は開かない。
仏間へ参集しているのは、本家・太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石 先手・弓の7番手組頭)夫妻、分家の大身で納戸町の久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)夫妻、久栄(ひさえ 23歳)とその実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)夫妻など、親しい親戚にかぎられていた。
本妻同様であった妙(たえ 50歳)の実家の兄で、上総国武射郡(むしゃごおり)寺崎村の村長(むらおさ)・戸村五左衛門(ござえもん 58歳)は、お経料がとどけていた。
寺崎村には、長谷川家の知行地(220石余)があった。
宣雄の終焉の地が京都であったために、西町奉行所からは、事前に与力一同よりとして線香がとどいていただけであった。
いくつかの記録に差違のある宣雄の命日については、すでに解説しているので、下の【参照】をおあらためいただきたい。
【参照】2009年11月20日~[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
平蔵が用人・松浦与助(よすけ 59歳)に目顔で合図すると、それぞれの前に酒と料理が配膳された。
後家の妙が下座から参会への謝辞を述べ、低頭しおわり、平蔵(へいぞう 30歳)と内室・久栄(ひさえ 23歳)が全員に酌をしてまわっていた。
本家の当主・太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、
「しかし、お妙どのは偉い。こちらの分家にかぎらず、長谷川家は脇腹に子を産ませることに長(た)けた当主どのが多かったが、そなたさまは宣雄どのの首に綱をつけ、伝統をぴたりと断ちきりなされた」
内室たちが賛辞をおくり、当主たちは目を交わしあい、白けた表情をとったところへ、松浦用人が、
「殿が京へご栄転になるまで組頭をお勤めになっておられました、先手・弓の8番手から、次席与力の小野史郎(しろう 50歳)さまが焼香だけとおっとしゃって、お見えでごいます」
平蔵がすぐに出迎えに立ち、案内してきた。
「用務のため、遅れて申しわけございませぬでした」
香華料を供え、焼香をすますと、お膳が用意されており、久栄が銚子を手に、待ちかまえていた。
小野与力は、そのまま帰れなくなり、着座して、懐からだした用箋を示し、
「長谷川組頭どのの五分(ごぶ)目紙といわれ、組下全員が持たされていた碁盤目でございます」
話題が脇腹子から転じそうなのを察した太郎兵衛正直が乗りだした。
「なんでござるかな」
【参照】2007年12月18日~[平蔵の五分(ごぶ)目紙] (1) (2) (3)
故・平蔵宣雄が、小十人頭から、先手・弓の8番手の組頭へ栄転してきたのは明和2年(1765)、47歳のときであった。
前職に就いたのが40歳の壮年時で、細かな文字も自在に読めたから、この五分目紙を板刻し、書類は枡目紙を下敷きにし、升目にあわせて書き、紙の節約を図かった。
そのまま、先手8番手にも応用した。
宣雄が京都へ栄転、後任の島田弾正政弥(まさはる 2500石)も36歳という若さでの着任であったから、五分目紙はそのまま引きつがれた。
しかし、いまでは筆頭与力・秋山善之進が54歳、小野次席が50歳となり、細字がかすむようになったので、
「今夕は、五分目紙を仏前にお返しするお許しを乞いに、参じました次第でございます」
これには、老父夫妻たちが声をあげて笑った。
「備中どのの名案も、齢には勝てぬな」
「銕(てつ)どの。備中は京都町奉行所でも、五分目紙を使わせていたのかの?」
「存じませぬ」
「55歳じゃったから、いかに鉄人・舅どのも、それはなかったろう」
大橋親英が仏壇をふりむいてつぶやいた。
| 固定リンク
「003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事
- 備中守宣雄、着任(6)(2009.09.07)
- 目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)(2009.07.03)
- 田中城の攻防(3)(2007.06.03)
- 平蔵宣雄の後ろ楯(13)(2008.06.28)
- 養女のすすめ(10)(2007.10.23)
コメント