佐野与八郎の内室
「与八郎。西丸の目付は何年になるかの?」
問うたのは、元・田中藩主の本多正珍(まさよし 68歳 4万石)老侯であった。
宝暦8年(1758)に老職(老中)の辞任を強(しい)られ、藩主の座もゆずることになってから19年になる。
隠居所ともなっている、芝・二葉町の中屋敷の庭にのぞんだ一ト間には、浜風はとおっているが、蝉の声がうるさかった。
おりよく非番がかさなった佐野与三郎政親(まさちか 46歳 1100石)と平蔵(へいぞう 32歳)が申しあわせ、久しぶりにご機嫌うかがいに伺候していた。
正珍の継嗣・紀伊守正供(まさとも 享年32歳)が先月亡じ、孫・三弥正温(まさはる 14歳)が遺領を継いでいたが、諸事は宿老たちにまかせ、正珍は藩政には口を容喙(はさん)でいなかった。
「11年にあいなります」
政親が応えたが、
「蝉めの恋歌がうるさいのにもてっきて、予の耳がかすんできおっての---何年と申されたかの?」
声を大きくし、
「足かけ、11年になりましてございます」
「西丸の少老はどこを見ておるのかのう、長すぎるわな」
「手前がいたりませぬゆえ---」
人柄そのままに恐縮した。
「仙寿院通頼(みちより 500石)法印どののご前妻は、たしか、与八郎のご内室の姉ごであったな?」
佐野与八郎の内室は、伊予・越智氏の河野((こうの)庶流のひとつ、豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6年 1000石)の7女であった。
正珍が話題にした仙寿院法印は、同じ河野庶流だが、奥医師が家職であった。
この河野仙寿院とのかかわりについて、藤田 覚さんは『田沼意次』(ミネルヴァ書房)に、田沼意次(おきつぐ 60歳=安永6年)との姻戚関係はないものの、きわめて親しい関係を取りむすんだ人物として、
幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん 通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の継嗣の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、境奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。
ことわっておくが、藤田 覚さんのこの著書の刊行は、2007年7月10日である。
このブログで、佐野与八郎政親を初めて登場させたのは、2007年6月3日だったように記憶している。
【参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (3) (4) (5) (6)
2007年6月4日[佐野与八郎政信] (1) (2)
2007年6月5日[佐野与八郎政親]
このはるか前、『夕刊フジ』に平成11年10月5日から12月4日まで、[江戸の中間管理職 長谷川平蔵]のタイトルで連載した中に、佐野政親を紹介した。
もとネタは『よしの冊子』である。
『夕刊フジ』の連載は、2000年4月288に文春ネスコから単行本として刊行された。
2回にわけて、こその「尊敬しあえる徳をもつ」を引用しよう。
「いや、長谷川どのはわれらなどがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましい」
鉄砲(つつ)16番手の組頭である1100石どり佐野豊前守政親が、火盗改メの助役(すけ)に任じられたあいさつにきた寛政2年(1790)10月のことだ。
この仁は46歳で堺の町奉行、50歳で大坂西町奉行に就いたぐらいだから、能吏、出来ぶつとの噂が高かった。
助役発令の前後にも、
「ここのところの先手組頭で、加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野をおいてほかにいない」
と殿中でささやかれていた。
そんな豊前守政親の真意をはかりかねた平裁は、
「なんの、なんの」
ことばを濁した。
[お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思っていても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大坂の町奉行を病いをえて退き、3年があいだ療養していて、ハタと悟りましてな。人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
「遊蕩が資すると……?」
「いかにも。人にもよりましょうが……は、ははは」
旗本の家に生まれ、それなりにしつけられはしたものの、番方(武官)としての出仕前……若いころの遊蕩の価値を、14歳も年長の先達に認められたのだから、平蕪も悪い気はしない。
両人の親交がはじまった。
豊前守はなにかにつけて[長谷川どのは先任者……]
「本役は平蔵どの……」
を口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。
平蔵も、
[豊前どのこそ人生の先輩……]
立てた。
菊川(いまの墨田区)の長谷川邸へ招いたり、氷田馬場南横寺町(いまの千代田区平河町二丁目)の彼の屋敷へ招かれたりして、情報を教えあい、盃をかわした。年齢差、家禄差をこえての深い交際となった。(明日につづく)
(河野豊前守通喬は5女を仙寿院通頼の内室に、7女を佐野与八郎政親の内室に帰嫁させた)
(河野仙寿院通頼法印の前妻は通喬の5女)
(佐野与八郎政親の内室は、河野通喬の7女。息・政敷の前妻は、仙寿院通頼の末の3女)
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コメント
それほど上位でない幕臣のことを調べるのは、史料が足りなくて困難をきわめます。
今日の佐野与八郎政親についてもそのことはいえましょう。
ちゅうすけさんは、よく、調べているなと感心していました。
ところが、藤田 覚先生のご著書では田沼派人事とみなされていて、大坂町奉行を罷免されたと。
たしかな証拠があってのことなのでしょうか。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.20 05:31
>文くばり丈太 さん
藤田先生には、田沼・定信時代のご著書も多いですから、佐野与八郎の罷免の理由については、なにか、しっかりした史料をお持ちなのでしょう。
ぼくたち在野の者は、、乏しい資料から人物を推定していくしかありません。
以前に、政親の人柄を判断したのは、『よしの冊子』の隠密たちが集めてきた断片からです。
いまでも、物事を私心なく、きちんと判断する人とおもっています。
もっとも、ガンコなところもあったかもしれません。
継嗣の家督がそうとうに遅かったですから。
佐野与八郎のご子孫の方と連絡がついたら、お話をうかがってみたいともおもつています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.20 07:20