長谷川豊栄長者の屋敷跡
本年の4月17日のこのブログに[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪]と題して、西焼津の三ヶ名(さんがみょう)あたりをうろうろし、ついに屋敷跡を発見できなかった経緯を書いた。
【参照】2011年4月17日[長谷川家の祖の屋敷跡を探訪]
そのことは、当日の〔鬼平クラス〕(JR静岡駅ビル SBS学苑)で披露した。
いつものように、クラスの安池欣一さんが早速に助(す)けてくださった。
リポートとともに、資料が送られてきたのである。
資料は、[焼津市史考古資料調査報書 小川(こがわ)城 2003年]と、[小川町史]のコピー。
リポートは、こんなふうに始まっている。
豊栄(歿後;法永) 長者の屋敢跡は焼津市により、「道場田・小川城遺跡」として発掘・調査されているようです。
安池さんの「道場田」も、「小川城」も地区名で、隣接しているために、[報告書 小川城 2003年]は併記している。
(明治22年 参謀本部製地図 [小川城]より)
[報告書 小川)城 2003年]は、
小川城遺跡というのは、『駿河記』巻十六志太郡巻之三「小川」村の項に
○長者屋敷小川の西北に当り、三ケヶ名不動院の前、田中の古土囲あり。
長谷川次郎左衛門尉正量の屋敷跡なり。
とあり、
豊栄長者屋敷のことである。
長谷川次郎左衛門尉正量は、林院二十二世大転秀教が書いた「林叟院開基石塔再建記」(享和2年-1802)に、
原夫、我山之開基、長谷川法永居士者、駿河小川村之住人也、以其家富挙世称長者、(中略)永正十三年六月一日、長谷川宝永居士寂、寿八十七霊也、当院之卯辰撰墓所建塔、(後略)
永享2年(1430)の生まれで、法永長者と呼ばれ、永正13年(1516)に87歳で没したことがわかる。
法永長者が見えるのは『今川記』と『今川家譜』であり、『今川記』に「山西の有徳人と聞こえし小川法栄」、『今川家譜』には「山西ノ小川ノ法永卜云、長老」とある。
【参照】2011年3月30日~[長谷川家と林叟院] (1) (2) (3) (4) (5)
(左上緑○=不動院 赤○=小川城輪郭 上青○=西小川丁目 同下=西小路公園)
安池さんは、さらに、ゼンリン地図に、三ヶ名の不動院と小川城跡の区画を示してくださった。
これでみるかぎり、4月17日のぼくは、間違ってはいなかった。
ただ、なにかで読んだ、「不動院前」という記述が大雑把すぎたといえる。
なんの記述だったか、確かめるために、関係資料をひっくりかえしてみた。
「あった!」
[大正2年(1913)7月下浣印刷 小川尋常高等小学校長・川村積造編纂 小川村誌]のコピーであった。
第十目 口碑伝説の、[二 長者屋敷]の項に、
『駿河記』に云う。小川に西北にあたlり、三ヶ名不動院の前の田中に、古土圍あり。
長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり云々とあり。
不動院は豊田村三ヶ名なり。
その前面は一望平坦の耕田にしてわが小川村の内なり。
小字(こあざ)を「城の内」という。
田中の所々に一段と高き茶畑あり。いかにも旧邸の址なるかを偲ばしむ。
里人云う、これ長者の屋敷跡なりと。
長者は長谷川氏にして今川氏旗下の士なり。正宣(また政平)、元長、正長など数代この地に住し、その家、はなはだ富む。
ゆえに小川長者、または法永長者と称せられしという。
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コメント
[小川村誌]はたしか、県立図書館で[小川町史]の隣にあった本ですね。中を見ませんでした。「あった!」って、壊滅状態の書庫から、苦労されて捜されたのでしょう。申訳ありません。
投稿: 安池欣一 | 2011.05.15 10:03
>安池さん
「小川村誌」から「小川町誌」への10数年間は、『鬼平犯科帳』のなかった時代にもかかわらず、長谷川家リサーチ、急速の進歩です。さらに『資料 小川城 2003年』にいたっては目をみはるばかりの充実です。
これいで、初瀬側の史料がでてくると、長谷川家はずっと明らかになるのでしょうね。
もっとも、三方ヶ原での戦死の状況がまだはっきりしていませんが。
投稿: ちゅうすけ | 2011.05.16 03:57