札差・〔東金屋〕清兵衛
「蔵前片町の〔伊勢屋〕が、国許の名産と申し、この寒中塩引鮭を置いていきました」
久栄(ひさえ 33歳)が、みごとな鮭を披露した。
「うまそうじゃな。しかし、いいおいたとおり、受けとる筋合いはない」
ぶっきらぼうな平蔵(へいぞう 40歳)に、
「はい。そのように伝えましたが---」
「そなたの実家・大橋家は、先々代から猿屋町の〔大口屋〕を使っているといってやったのか?」
「はい。したが、長野さまのお口ききといわれまして---」
蔵前片町の〔伊勢屋〕次郎兵衛も猿屋町の〔大口屋〕清八も、蔵前の札差を商売としていた。
〔伊勢屋〕が長野さまといったのは、西丸の書院番3の組の番士で平蔵の盟友の佐左衛門孝祖(たかのり 40歳 600俵)であった。
久栄の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 72歳 300俵 新番組頭)は、足高(たしだか)700石もふくめ、春(2月)、夏(5月)、秋(9月 いずれも旧暦)の年3回の廩米の受けとりを蔵前の札差に代行させていた。
長谷川家は、知行地が上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村に220石と新田開発分100石近く、さらに山辺郡(やまべこおり)片貝村に180石と自家開発分を、米屋をやっていた伊能三郎右衛門(のちの忠敬 ただたか 41歳)が鎌倉河岸にだしている江戸店(えどだな)をとおして有利に換金してきていた。
札差屋がねらっているのは、こんど平蔵が西丸・徒頭(かちのかしら)として給される足高の600石(じつは600俵)の扱いであった。
【参照】2011年9月20日[ちゅうすけのひとり言] (77)
平蔵はひそかに、その扱いを、諏訪町の〔東金屋〕清兵衛にまかせることに決めていた。
(上総国の知行地 赤○=寺崎と片貝村 緑○=東金 明治20,年製作)
伊能家とのあいだがぎくしゃくしてきたら、知行地に近い東金町の出身の清兵衛に相談しなければなるまいとの観点から、〔耳より〕の紋次(もんじ 42歳)に〔東金屋〕の評判をさぐらせていた。
(それにしても、商売人の風聞入手のすばしこさは見習うべきだなあ。武家が誇りと買職にかまけているかぎり、没落はまちがいない)
「明日、戻してしまえ」
「それでは角がたちましょう。長野さまにいちおうお断りになってからでも、塩鮭は変わりませぬ」
翌日、柳営で長野佐左衛門に、〔伊勢屋〕次郎兵衛があいさつにきたが、あそこに扱わせる気はないと告げると、
「いや、うるさくせがまれての。いささか前借もしていて---」
「いくら借りているのだ?」
あたりをみまわしてから、佐左(さざ)は、
「50両(800万円)ばかり---」
「なにに使ったのだ?」
「4年前に借りたのは5両(80万円)だったのが、利に利が積もってな」
小料理〔蓮の葉〕のお蓮(はす 31歳=当時)との情事は9年前に終っていたはずだが、4年前にも情をかけた新しい相手ができたかとおもったが、訊いては借金の肩がわりをしてやらねばならなくなるし、城内での話題ではなかった。
定収入のある男が金に窮したといったら、おんなか賭けごととみていい。
【参照】2010年7月31日~[浅野大学長貞(ながさだ)の異見] (4) (5) (6)
しかし、それにしても5両が4年で10倍の50両とは、あまりにも高利すぎた。
幕府が札差商にみとめている金利は年1割5分(15%)で、1割8分までは黙認していた。
(奥印金(おくいんきん)だな)
「奥印金」とは、借金を申しこまれると、手元に貸し金がないが、貸し主のこころあたりはあるが、利息がいささか高いと告げ、それでもいいと返事すると、借用書のうらに保証人として署名捺印する、いわゆる偽装金融であった。
「難儀だな」
「〔伊勢屋〕のことは、適当にな」
「わかった」
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コメント
なるほど、昨日の「ひとり言」で役高の石(こく)と俵(ひょう)の解説は、きょうからの蔵前の蔵差たちを描くための複線だったのですね。
鬼平がかかわっていた江戸を史実を下敷きにしながらいろんな局面を描いてみせていただき、いまさらながら鬼平の眼線で江戸時代を勉強させていただいています。
投稿: 左兵衛佐 | 2011.09.21 05:27
>左兵衛佐 さん
そうなんです。格高の実際がわかったので、きょうのテキストが書けました。
やはり、いろんな細部の知識が要求されますね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.09.21 11:43