先手・弓の6番手と革たんぽ棒
「それでは3月の中旬までに、1尺5寸(45cm)に棘(とげ)起こしをした鉄板を巻いた先っちょに、革たんぽをしっかりとつけた槍棒を30本、間違いなく納めてくれるのだな」
駄目おしをした平蔵(へいぞう 42歳)に、数奇屋河岸西紺屋町の武具舗〔大和屋〕仁兵衛(にへえ 57歳)が、
「一日でも遅れましたら、〔大和屋〕、長谷川さまへの申しわけに、代金を一文もお申しうけいたしませぬ」
「さすがは〔大和屋〕、みごとな申し状である。だがな、仁兵衛どん、 こたびのこれは、金銭ごとではないのだよ。期日なのだ。こころえておいてくれ」
「とくと腹に入れましてございます」
仁兵衛が退出するのを見とどけてから、この屋敷の主(あるじ)――松平庄右衛門親遂(ちかつぐ 60歳 930石)へ、〔大和屋〕が見本として持参したたんぽ槍棒のうちの1本を手渡し、
「お頭(かしら)どのもしっかりとお見定めいただいたとおり、革たんぽ棒は、3月中旬にはかならず納品されますから、騒擾(そうじょう)は4月以降であれば、いつ起きても治められましょう」
組頭の親遂に代わり、先手・弓の6番手の筆頭与力・小津時之輔(48歳 220石)が平蔵に訊きかえした。
「したが長谷川さま。ほんとうに騒擾は起きるのでございますか?」
「4月か5月には、間違いなくおきます」
「そのとき、わが第6の組に鎮圧の任が振られることも---?」
「間違いないでしょう」
長谷川組の筆頭与力・脇屋清助(きよよし 60歳)が問いを引きとった。
「小津筆頭どの。 〔目白会〕の筆頭仲間ということで、失礼を神棚にあげてお尋ねします。こちらのお頭のお齢は---?」
小津筆頭が松平組頭のうなずきをたしかめてから、60歳と応えると、脇屋筆頭が言葉をつないだ。
「34組ある先手のお頭のうち、弓はうちの長谷川さまと火盗ご本役の堀 帯刀(52歳)さまをのけて、50歳代以下のお頭は---?」
「---なし」
「鉄砲(つつ)組のお頭では――?」
武藤庄兵衛安徴(やすあきら) 46歳 2の組
安部平吉信富(のぶとみ) 59歳 7の組
鈴木弾正少弼政賀(まさよし) 48歳 9の組
小野治郎右衛門忠喜(ただよし) 54歳 17の組
奥村忠太郎正明( ただあきら) 56歳 西丸 4の組
「5人の組頭さま――のみ」
「10ヶ所で同時に狼藉を働かれたら、まるで手不足ですな」
「あと――何組?」
「4組。60歳を入れてみてだされ」
「うちのお頭――
筒の19の安藤又兵衛正長( まさなが)]さま、60歳」
「60歳代では、ほかに――?」
「弓の7の河野勝左衛門通哲(みちやす)さま、64歳
筒の6・柴田三右衛門勝彭(かつあきら)さま、65歳」
「できた!」
と平蔵。
「つまり、わしの組ものがれられないということか」
松平庄右衛門がしみじみとした声音でいったので、座が笑いにつつまれた。
愛宕下の塔頭を20院ほども擁している名刹・天徳寺の門前町、先手・弓の6番手松平家の屋敷であった。
「長谷川うじ。4月が5月という読みは?」
「大坂の東のお町(奉行)・佐野豊前(守政親 まさちか 56歳 1100石)さまからの秘密の狼煙(のろし)です」
(能見)松平庄右衛門 親遂が、去年――天明6年(1786)閏10月に病死した新見(しんみ)豊前守正則(まさのり 享年59歳)の後任として先手・弓の6番手の組頭に就任したことはすでに記した。
庄右衛門 親遂の前職は、本丸の小十人頭で、平蔵の亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が先手の組頭につく前のポストであったから、平蔵はなんとなく親しみをおぼえていた。
(この本丸・小十人の頭時代に継室の仲立ちをしたのかもしれない)
酒と食事が供されたついでに、つい、老中職・田沼意次(おきつぐ)の木挽町(こびきちょう)で火盗改メの組頭・横田源太郎松房(としふさ 42歳 1000石)ともどもに諮問をうけたことを打ち明けた。
【参照】2011年9月10日[老中・田沼主殿頭意次の憂慮] (1) (2) (3) (4)
つづいて、大坂からひそかに出府してきていた佐野豊前守政親もいた席で、べつに秘策があると洩らしていた。
【参照】2012年4月8日[将軍・家次の体調] (5)
「そのとき、秘策と申されたのが、この革たんぽつきの樫棒でございましたか?」
小津筆頭が納得の声を発した。
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