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2005.01.17

〔名越(なごし)〕の松右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻17、長編[鬼火]の終末にチラッと語られる、3カ条の掟てを守りぬき、[鬼火]の中心人物で、身をよせたことのある元、600石の旗本・永井弥一郎(のめんどうを、14,5年間もみつづけた。

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年齢・容姿:書かれていないため、不明。
生国:伊勢国のどこか。

年齢・容貌:上富士の富士浅間神社の近くの〔権兵衛酒屋〕へ鬼平が立ち寄った晩、そこの夫婦が何者かに襲われた。

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駒込の富士浅間神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾忠久)

亭主の弥市は逃げおうせ、鬼平は女房のお浜を牢役宅にとどめたが、見張りの島田同心が油断したすきに自害して果てた。
長い長い物語はこうしてはじまり、かつての表御番医・吉野道伯や6,000石の大身旗本・渡辺丹波守直義などもからんで進展する。

結末:〔名越〕の松右衛門については、亡妻の墓前に現れて捕まった弥市の口から語られる。
浪人くずれの凶暴な盗賊団の首魁である滝口金五郎ほか14名が逮捕されて一件落着ののちのことである。
吉原の花魁と駆け落ちした旗本・永井弥一郎は、表御番医・吉野道伯とつながりがあった〔名越〕の松右衛門の下で盗人稼業を手伝うが、ほかに男をつくった女は、殺した。
(参照: 元旗本・永井弥一郎の項)
弥一郎がは、〔名越〕の松右衛門一味にいた14,5年のあいだに上方で二度、江戸で二度お盗メをし、江戸での最後の仕事---小網町の線香問屋〔熊野屋〕作兵衛方へ押し入ったとき、手代と小僧あわせて4人に重傷をおわせてしまった。
これを嘆いた〔名越〕の松右衛門は、盗金3,000余両をすべて配下へ分配し、飄然と故郷の伊勢の国へ姿を消した。

そのときに、松右衛門、
「お前さまの、たよりになる婆(ばば)じゃ。共に暮しなされ」
こういって、お浜を弥一郎に引き合わせたのである。p320 新装p331

永井弥一郎(弥市)は、死罪。
〔名越〕の松右衛門は、不明。

つぶやき:CD-ROM版『郵便番号』で「名越」を検索すると、
 岐阜県各務原市鵜沼真名越町
 滋賀県長浜市名越町
 京都府八幡市下奈良名越
 熊本県下益城郡砥用町名越谷
が現れ、伊勢をふくむ三重県はない。

念のため、長浜市の「名越」を問い合わせた。
長浜市役所市史編さん室学芸員 橋本さんからメール。

1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺とここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。
江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。

2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業
合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。

池波さんは、姉川の戦いのことを調べるために、いくども近江を訪れている。そのときに長浜市の名越を知ったのではないかともおもった。

明治20年ごろに陸軍参謀本部測量部が作成した地図で、愛知県南設楽郡に「名越」を見つけた。
その問い合わせに対する、南設楽郡鳳来町教育委員会史跡文化財係 谷川さんからのメール。

1.名越村の誕生の時期
名越村の誕生の詳細な発生については、不明ですが、寛永年間(1624~44)の検地本帳には、「なこへ」という  文字が見えます。
また、享保8年(1723)の文書には「名越」というものが見えています。
現在でも字名として「名越」の地名が残っています。
2.名越村の合併の経緯と人口、戸数および主たる産業
名越村→大野村(明治22 合併)→名越村(明治23分村)
七郷村(明治39 合村)→鳳来町(昭和31 合併)
明治21年 45戸  224人
明治39年 49戸  280人
平成 3年 51戸  220人  
主たる産業 明治・大正と養蚕。
3.名越の読み方
「なこえ」

池波さんは、三重県を荒木又右衛門のためと、伊賀忍者の取材で幾度か訪れている。そのときに目にした地名が「名越」だったのかも。

この上は、三重県の鬼平ファンのご教示をまつしかない。

蛇足--〔名越〕の松右衛門一味の江戸での最後のお盗めは、小網町の線香問屋ということだが、ここを池波さんが選んだのは、『江戸買物独案内』の業種別に分類さている「線香問屋」のページを見てのことであろう。
が、じつは、線香問屋単独というのはほとんどなく、薬種(くすりだね)問屋の兼業であった。
江戸の薬種問屋は、線香のほか絵具問屋、丸藤問屋もかねていた。だから、押し込み先は、薬種問屋とすべきであった。

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コメント

へえ、江戸の線香問屋は、ほとんど、薬種問屋の脇扱いだっただなんて、知りませなんだわ。

初めて教えられましたが、ちゅうすけさんは、どうしてそんなこと、ご存じなのですか?

それと、薬種問屋を(くすりだね)と読んでられますが、『鬼平犯科帳』には(やくしゅ)とふり仮名がふられています。(くすりだね)の根拠も教えてくださいな。

投稿: 裏店のおこん | 2005.01.17 12:34

>おこんさん

江戸の線香問屋はほとんど、薬種問屋の脇扱いだった---なんてことは、どの江戸解説本にもかかれていません。
ぼくの新発見です。
というのは、業種別にまとめられている『江戸買物独案内』2622枠をすべてばらして、町ごとに名寄せして、それぞれを切絵図に貼りつけてみたのです。

そうしたら、薬種問屋が線香と絵具と丸藤も扱っていることがわかったのです。

薬種(くすりだね)と(やくしゅ)の件は、薬種問屋が『江戸買物独案内』では「く」の項に分類されているので、(くすりだね)と読むのだなとおもいました。

もっとも、(やくしゅ)も間違いというのではありません。『江戸名所図会』の本町の薬種店の絵に(やくしゅ)とルビが付されています。池波さんは、これをご覧になったのでしょう。

投稿: 西尾 忠久 | 2005.01.17 16:01

>ちゅうすけさん

はい、よくわかりました。要するに、不断の努力により、情報を溜め込んでおくということですね。

わかってはいても、なかなか、つづけられませんが---。

投稿: 裏店のおこん | 2005.01.18 18:51

今・日本橋本町通りの歴史を調べています。本町にあった丸藤問屋の取り扱いの商品の内容が解りません。知っていましたら教えてください。中央区の学芸員も今のところ解らないとのこと。

投稿: つけまる | 2006.07.30 19:21

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