〔三雲(みくも)〕の利八
『鬼平犯科帳』文庫巻20に入っている[二度あることは]に顔を見せる一人ばたらきの盗人。渋谷の氷川明神社(現・氷川神社 渋谷区東町2丁目)の近くに構えた盗人宿で鬼平に逮捕される。
年齢・容姿: 40前だが、3つ4つは若く見える。背すじ鼻すじのとおったいい男ぶり。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかこおり)三雲(みくも)村(現・滋賀県甲賀郡甲西(こうせい)町三雲)
探索の発端:非番の同心・細川峯太郎は、母親の命日に感得寺に墓参した帰り、権之助坂の茶店の寡婦お長の躰と情事での狂態が忘れられず、ひそかにうかがったが、隣の小間物屋を訪れた眼鏡師の市兵衛を見かけて尾行、三田の店をつきとめた。
この行人坂を下りてきて目黒川をわたり、右端を右折で威徳寺(感得寺)(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
翌日、見張っていた市兵衛の店から三雲の利八が出てきた。今度の両国・吉川町の鼈甲細工屋〔上総屋(かずさや)を襲う盗めに、市兵衛の鍵づくりの腕を借りにきたのだった。2人は、〔蓑火〕の喜之助の許で盗めをともにした仲だった。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
利八を尾行している細川峯太郎を馬上から認めた鬼平は、対象が〔三雲(みくも)〕の利八だとすぐに分かった。
〔甞役(なめやく)〕から密偵となった〔馬蕗(まぶき)〕の利平治の口述で、利八の人相書もつくられていたからである。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項 )
結末:渋谷・宮益坂上の黒鍬組(工兵隊)の屋敷から手を借りた鬼平は、氷川明神社に近い利八の盗人宿を包囲し、利八をはじめ一味をすべて捕縛。死罪であろう。
渋谷・氷川明神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
つぶやき:130余話あるこのシリーズの後半諸篇は、鬼平の手配よろしきもあり、盗賊たちの盗めはほとんど未遂におわる。その分、緊迫感が薄れるのは否めない。そこで別の要素をつけくわえて盛り上がりや、サスペンス味を濃くするための工夫が必要。
この篇では、細川同心の好色ぶりが、それかも。あるいは眼鏡師という江戸後期の職業か。
眼鏡師のヒントとなった『江戸買物独案内』の眼鏡所。
ほころびを目にした。逮捕した〔三雲〕一味を連れもどった鬼平を、役宅の門へ走り出て迎えたのが酒井・沢田・小柳とある。小柳安五郎同心はこの前の[おしま金三郎]事件で無頼浪人たちの刃(やいば)を受け、長屋で傷の治療中、と冒頭に置かれている。左腕と背中の傷だから走るのには差しつかえない、といえばいえるのだが。
滋賀県の「甲賀」は(こうか)と濁らないことを、甲賀市のURLで知った。伊賀・甲賀(いが・こうが)とばかりおもってきたのに。
www.ctiy.koka.shiga.jp/
| 固定リンク
「124滋賀県 」カテゴリの記事
- 〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(3)(2011.01.24)
- 〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(2)(2011.01.23)
- 〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(1)(2011.01.22)
- 〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その3)(2005.04.16)
- 〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その4)(2005.04.17)
コメント
「甲賀」(こうか)って読むのですね。
ずっと(こうが)だと思ってました。では「甲賀
流忍術」は?と思い色々と検索してみました。
さまざまで(こうが)とルビをふってあるものも
あれば、(こうか)とふってあるのもありました。
ただ市のHPでは当然のことながら、「甲賀流
忍術」(KOKA RYU NINJITSU)でした。
ちなみに伊賀は(いが)です。
漢字を見ただけではわからない、現地に行ってはじめて読み方が解る事ってありますね。
日本語って味があるけど難しい!
投稿: みやこのお豊 | 2005.04.13 16:31
>みやこのお豊さん
東京に「笄町(こうがいちょう)」って町名があります。
初めて東京に住んだころ、あれは「甲賀伊賀者」が住いをもらった土地だと教わりました。
だから「こうが」とずっとおもいこんできました。
少年講談の伊賀者---服部半蔵などには伊賀(いが)者とルビがふられていましたが、猿飛佐助の甲賀者はどうだったかなあ。
昭和50年ごろに出た角川の『地名辞典』は(こうか)です。
『旧高旧領』や『大日本知名辞書』も調べてみましょう。
投稿: ちゅうすけ | 2005.04.13 17:10
『旧高旧領』で「甲賀」を検索したら、
志摩国英虞郡甲賀(こうか)村
近江国浅井郡甲賀(こうか)村
もっとも、原本にはルビはふられていませんから、データベース化した歴博の先生方がおふりになったはず。ですから、戦後のルビです。
明治のルビは吉田博士の『大日本地名辞書』ですね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.04.13 17:22
吉田東伍博士『大日本地名辞書』は、「甲賀」(コフガ)(コフカ)と両方がふられていました。
甲賀古書に「鹿深」(カフカ)「甲可」に作る---とありますから、(こうか)なんでしょうね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.04.13 17:30
[二度ある事は]で平蔵が単身百姓家へ打ち込んだ時、幕府の黒鍬組から5名を借り受けてありましたが、この黒鍬組とは聞きなれない名称で先生のブログでは工兵隊とありましたが、「江戸時代館」ちょっと調べてみましたら、
黒鍬之者とあり200~400人、12俵1人扶持
戦時における土木技術者。陣営の設置や武器の輸送、戦死者の埋葬に従事、平時には江戸城中の掃除や、将軍外出の際の道具輸送などを勤めたと解説されてました。
尾張屋版の切り絵図では目黒白金図や芝三田二本榎高輪図にも黒鍬組が記載されてます。
幕府に仕えてはいますが、旗本屋敷の中間、奴のような存在だったのでしょうか。
投稿: 靖酔 | 2005.04.14 11:56
>靖酔さん
黒鍬組のこと、補足していただき、ありがとうございます。()の中では、「工兵隊」ぐらいにしかいえませんでしたので、助かりました。
投稿: ちゅうすけ | 2005.04.14 17:23
眼鏡師・市兵衛の説明のために掲出された、『江戸買物案内』の眼鏡所の広告がおもしろいですね。
時代劇で、質屋のご亭主などが掛けているのとそっくり。あら、時代劇の小道具さんがこの史料を参考にしてつくったのですよね。逆なんだ。
わたくしたちが「つる」と読んでいるテンプルは、ゴムか紐で耳へかけたのでしょうね。
当時、ゴムはあったのでしょうか。組紐かなんかであるていど伸縮するの紐はできていたのでしょうか。
投稿: 目黒の朋子 | 2005.04.20 05:24