〔駒野(こまの)〕の伝吉
『鬼平犯科帳』文庫巻18に収録の[草雲雀]に、ほんの半行だけ語られる盗賊のお頭である。それだけに、いろいろと想像がふくらむ。
同心・細川峯太郎がかつてその躰になじんだことのある寡婦お長は、権之助坂中ほど、上覚寺(尾張屋板の切絵図の誤植。浄覚寺が正しい)北の茶店〔越後屋〕の女主人だが、その北隣の雑貨やたばこなどを商っているのが、ここも女手・おきぬの店〔かぎや〕である。
そのおきぬと、彼女の亭主・友次郎(じつは盗っ人の〔瀬川(せがわ)〕の友次郎))が上方へお盗めに行っているすきに出来たのが〔鳥羽(とば)〕の彦蔵(37,8歳)である。
(参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)
ある日、友次郎と彦蔵が白金10丁目の妙円寺の前でばったり出会い、彦蔵がいった。
「江島のお頭をはじめ、仲間の連中が盗賊改メに引っ括られてしまい、いまはおれも、お前さんと同じ一人はずけたらきだ。そこで友次郎鈍。実は半年ほどのうちに、おれは伊勢の桑名へ行き、お前も耳にしたことがあるだろうが、駒野の伝吉お頭の盗めを手伝うことになっているのだ---」
(参照: 〔江島〕の由蔵の項)
年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国: 美濃(みの)国多芸郡(たぎこうり)駒野新田村(現・岐阜県海津郡南濃町駒野新田)。
探索の発端と結末:〔鳥羽(とば)〕の彦蔵の口から語られただけの、名古屋、伊勢あたりがてテリトリーなので、探索は及んでいない。
つぶやき:mixiというインターネットの親睦機関が運営しているぼくの日記欄で、長野県下伊那郡阿智村駒場の読み方について(こまんば)説と(こまば)説をしょうかいしたとき、keiさんとおっしゃる学究の徒から、
高麗(こま)という地名の場所には渡来人が多く住み、古代の牧(牧場・馬関連)を管理していたのではないかという説を大学の授業か何かで聞いた覚えがあります。
という書き込みをいただき、 知識の泉の主のようなアルムオンジさんからも同じご意見を承った。
南濃町の駒場新田について、角川の『地名大事典』は、「地名の由来は駒野村の草場を新田に開発したことによる。河川にはさまれた低地であるため、氾濫に絶えず悩まされた」。それで、〔駒場〕の伝吉の出身を、駒場村でなく、河川の氾濫に荒らされる新田のほうを採った。
天保3年の戸数57戸、人口278人。
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コメント
高麗のことは私もきいていました。
埼玉県日高市の高麗川沿いの「高麗神社」にある、市が建てた解説板に次のような事が書かれていました。
「乱を逃れた高句麗国の貴族、僧侶をはじめ多数の人が日本に渡り、主に東国に住んだが、
716年そのうち1799人が武蔵野国に移され、
新しく高麗郡が設置された。
その時の郡長が高麗神社の祭神で、高句麗からの渡来人高麗王若光でした」
高麗神社に接して17世紀の高麗家住宅(国指定重要文化財)が公開されています。
「高麗」と「駒」の関連が解らないのですが、
高句麗人は中国大陸の松花江流域に住んでいた騎馬民族だそうなので、理解できるような気がいたします。
投稿: みやこのお豊 | 2005.08.23 18:41