徳川将軍政治権力の研究(4)
2007年8月16日 [田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]に、八代将軍・吉宗の政治力を支えた、紀州藩士出の2人の側衆について触れた。
有馬兵庫頭氏倫(うじのり 当初1300石、のち1万石)と、加納近江守久通(ひさみち 当初1000石、のち1万石)がそれである。
深井雅海(まさうみ)さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)は、
第1編・第3章[享保前期における「御用取次政治」
---加納久通と有馬氏倫の役割を中心に---
で、両名が将軍・吉宗と老中たちへの、公事・仕置についての上申・下達を中継ぎした種類と件数を公開。
さらに、
第2編・第3章[紀州藩士の幕臣化と享保改革]の第2節[紀州藩出身者と吉宗政権]の最初の項[有馬久通と有馬氏倫理ら吉宗側近]
で、総括するように、『徳川実紀』正徳6年(1716 享保元年)5月16日を引き、「藩邸供奉の執事有馬四郎右衛門氏倫・加納角兵衛久通して、中次の事つかさどらしめ(今御用取次の濫觴なり)」たとしている。
もっとも、紀州藩出身の幕臣たちの出頭人であった有馬兵庫頭氏倫は享保20年(1735)に68歳で、加納近江守久通も寛延元年(1748)に76歳で卒したことも、前記[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]に記し、俊才イケメン・田沼主殿頭意次が、紀州勢の希望の星に擬せられたと推測した。
[田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入]には、加納近江守(のち遠江守)久通の孫・遠江守久周 (ひさのり)が長谷川平蔵宣以に関わったことともに、加納家の『寛政譜』と久通の個人譜も付した。
公平を期するために、重くなるが、有馬家の『寛政譜』と兵庫頭氏倫の個人譜を掲示しておきたい。
ちょっと横道にそれるが、有馬姓に、21万石・久留米藩の末裔で、直木賞作家で[四万人の目撃者]という球場ミステリーを残した有馬頼義(よりちか)さんの縁者かなと『寛政譜』の前後に目を通したら、はたして、そうであった。
いや、ミステリー小説では記憶がない人のほうが多かろう。競馬の有馬記念の名称の所以(ゆえん)といっておこう。
もちろん、出身は摂津国有馬郡。本家の『寛政譜』は省略。
掲示したのは、播磨国三木の城主・則頼(のりより)の息・豊氏(とようじ)の三男・頼次(よりつぐ)が立てた有馬家で、頼宣(よりのぶ)に仕えたところから。
氏倫の個人譜の母の出自を見ていただきたい。
「建部(たけべ)宇右衛門光延(みつのぶ)が女」とある。
建部の本家は、お家流の家元である。能筆のゆえに家康の祐筆(書記)に召されてもいる。書の手跡が遺伝するかどうかは知らないが、紀伊藩では信じられていたのかも知れない。
吉宗が側衆に取り立てた一因が氏倫の手跡だったとも推測してみたい。もちろん、才智のすぐれていたことのほうが優先するが。
こんなふうに横道を遊ぶことも、長谷川平蔵宣以の史実探索の楽しみの一つである。
もっとも、お家流コンプレックスがすぎると笑われれば、それもそうだとしか答えるしかないが。
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コメント
毎日高尚な文献なのでコメントできずに拝読させていただいております。
私も横道にそれて・・・
有馬兵庫頭氏倫の母の出自までは、中々気がつきませんんが、ご本家がお家流の家元というと、さかのぼると藤原行成にたどりつきますね。
お家流は武家の公式文書ばかりでなく、江戸時代には庶民の江戸文字もお家流だったとか。
江戸の文献を直に読むために参考書を探していました。
最近長谷川雪旦の「江戸名所図会」をお手本にした「書いておぼえる『江戸名所図会』くずし字入門」(柏書房)をみつけました。
私のような初心者にもわかりやすく江戸の名所を楽しみながら江戸文字が覚えられて一挙両得です。
投稿: みやこのお豊 | 2007.08.19 14:42
そんな本まででているのですね。
江戸ブームというのは、ある程度、ほんとうなのかも。
ぼくも、お家流、それで身につけようかな。
投稿: ちゅうすけ | 2007.08.21 03:16