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2008.01.19

与詩(よし)を迎えに(29)

遅い朝食を終えると、阿記(あき 21歳)はばらばらに解けた頭を結わすために、空き部屋へいった。

「若、お早うございます」
呼んでおいた藤六(とうろく 45歳)である。
「おう、入ってくれ」
藤六(とうろく 45歳)は、昨夜一と晩を都茂(とも 43歳)と過ごしたからか、冴えた顔色をしている。
暗黙のこととして双方、昨夜のことには触れない。

銕三郎(てつさぶろう)の前には、旅籠から借りた、道中絵図がひろげられたいた。
「平塚の顔役・〔馬入(ばにゅう)〕の勘兵衛(かんべえ 35歳)のことは、都茂から聞いたろう」
「食えない男でございますね」
「それでだ---藤六は、わが長谷川家にくる前は、わが家と同じく上総(かずさ)の片貝(現・九十九里町)に知行地をお持ちの本間修理(しゅり)季道(すえみち 38歳 書院番士 1800石)さまの家僕であったな?」
藤六は、片貝の本間家の知行地の農家の三男に生まれた。
「はい。しかし、そのころは、勘兵衛などという道はずれ者の名は、耳にしたことはございませなんだ」
「ちょっと、待て。本間さまと〔馬入〕の勘兵衛とは、どういうかかわりがあるのだ?」

銕三郎の父・平蔵宣雄は、書院番士から小十人の組頭に栄進した。その書院番士だった時の同じ組へ27歳の本間修理季道が入ってきた。
初めての出仕だったので、宣雄が指南役として面倒をみていた時期があった。
両家ともに、今川家から徳川に仕えたということもあるし、上総国山辺郡(やまのべこおり)片貝に知行地を貰っていたこともあって、ふつうよりも親しくしていた。
長谷川家は片貝には180石。(ほかに上総・武射郡寺崎に220石)。
本間家は330石。(ほかに下総(しもうさ)国香取郡に450余石、相模国高座郡(こうざこおり)に300石など)

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(本間修理季道の個譜)

その本間家に仕えていた時、藤六はやむにやまれない事情から、浅草の香具師(やし)の手下と喧嘩をする羽目となり、本間家から暇をとった。その藤六宣雄が引きとった。それから7年経つ。

「というわけで、本間家には、高座郡田畑村(現・寒川町内)に300石ほどの知行地がございましたので、指示やら連絡(つなぎ)やらで、何度か藤沢宿経由で田端へ参っております。その時に、近隣の噂も耳にいたしました」
「それでは、藤沢宿からの江ノ島道も存じおるかな?」
藤六は察しが速い。都茂から寝物語に、阿記が近く鎌倉の尼寺へ入って縁切りをする事情も聞いている。
「一度、知行地からの帰りに、弁天宮へ参詣したことがあります」
「うむ、ますます、好都合。どうであろう、いささか遠まわりにはなるが、阿記どのを鎌倉まで送りがてら、江戸へ帰るというのは?」
「東海道から藤沢、江ノ島となりますと、平塚宿と馬入を通ることになりますが---」

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(明治19年印刻の地図。所有しているはずの道中懐中図が見あたらないので)

「そのことよ。あらましは、都茂から聞いているとおもうが、箱根山道の荷運び雲助の頭(かしら)・〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)というのがこの件に一枚噛んでいてな、今宵、権七に会って相談してみるが、それまででもよいし、小田原へたどり着くまででもよいから、なんらか、知恵があったら、貸してもらいたい」
「あい分かりました」

髪を結いあげた阿記が戻ってきた。
藤六さん。都茂は、いまから始めます。あと小半刻(30分)はかかるでしょうよ」
「ありがとうございます。枕をはずすなっていったんですが---」
「ほほほ。むつまじくて、なによりでした」
「恐れいります。ところで、若。馬入を知行地になさっている、保々(ほぼ)さまをご存じでございますか?」
左門貞為(さだため)さまか。ご病気で臥せっておられるやに聞いている。家禄はたしか、1000石前後であったな」

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(保々左門貞為の個譜)

「家禄1000石のうちの、20石ほどを馬入にお持ちで。もっとも、管理はかつてから、あのあたりの公領のお代官・江川太郎左衛門さまにお預けになっております。ですから、勘兵衛をしめあげるには、保々さまから江川お代官さまへ頼む手もございます」
「いや、公けの手を借りては、勘兵衛のような無道者は、後を引く」
「はい。余計なことを申しあげました」

藤六が去ると、阿記が感心した口調で、
「お旗本というのは、すごくお勉強をさなさるのですね。いったい、何家ほどの内向きのことにまで通じていらっしゃるのですか?」
「うむ。父上だと、お目見(みえ)以上の家を、まず2000家。お目見以下を1000家。拙はいまのところ、お目見以上を800家---といったところかな」
「それほどに---」
「いや、阿記のおやじどのが、芦の湯の村長(むらおさ)として村人の全員と、旅籠の主(あるじ)として客2000人の顔を覚えてござるのとたいして変わらぬ。ははは。暗記するといっても、名前、石高、役職着任年、知行地---まあ、こんなところかな。暗記することが役人の資格みたいなものでな。いってみれば、役人なんていうのは人事の噂話を食って生きている虫よ」
宣雄・銕三郎のころのお目見以上の幕臣は5200家前後、といわれている。それ以下は1万7000家前後あった。

入り口の襖戸の掛け金をおろした阿記が、にんまりと微笑んで、
さま。四ッ(午前10時)のおやつを。阿記は、おやつをいただいて生きている虫でございますゆえ」
「うん?」
「誰も来ないようにと、帳場に言っておきました」
「せっかく結った髪がくずれるではないか」
「大丈夫でございます。こう、いらっしゃって---」

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(栄泉『艶本 美女競』部分)

真昼のこと、さすがに阿記は必死に声を殺している。

娑婆にいられるのがあと数日でしかないとおもいきわめているので、遮二無二むさぼる。
その阿記のこころ根をいじらしいとも愛らしいともおもう銕三郎は、できるかぎり満たしてやろと決めていた。
18歳という若さである。放射しても、放射しても、尽きることはない。


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