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2008.02.07

ちゅうすけのひとり言(4)

『寛政重修諸家譜』によると、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以=小説の鬼平)には、3人の妹がいる。
うち、2人は養女で、三女は父・宣雄(のぶお)が産ませた子のようだ。
産婦は記されていないから、不明であるが、とくに[某女]と書かれていないから、妻女とも思える。

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(父・宣雄の養女とむすめ。銕三郎の妹たち)

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(妹たちのうち、三女にスポット・ライト)

池波さんは、この三女の存在から、『鬼平犯科帳』文庫巻23[隠し子]でおを思いついたのかもしれない---と長いあいだ、推量していたが、こんど、調べてみて、それはありえないと分かった。

[隠し子]は、寛政9年(1797)ごろの事件である。30歳の園が誕生したのは明和7年(1768)前後である。宣雄、52歳の時。

『寛政譜』は、三女の嫁(とつ)ぎ先を、大久保平左衛門忠居(ただをき)と記している。

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(三女の嫁ぎ先 大久保忠居個人譜)

徳川家臣団のうちでも、大久保99家、本多100家とはやされたほど一門の多い大久保の流れだが、『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教(ただたか---『寛政譜』 ただのり とルビする人もいる)のニ男・平左衛門忠職(ただより)の子孫である。

忠居は、明和8年(1771)5月3日、22歳の時に、祖父・平左衛門忠辰(ただとき)の遺跡(750石)継いでいる。父・勝之助忠尚(ただなお)が4年前に44歳で歿していたからである。
祖父は、3ヶ月前の2月の某日、74歳で卒していた。

忠居が、長谷川平蔵宣雄の三女---銕三郎の末妹---を嫁に迎えたのは、この前後であったろう。
花婿・忠居が22歳なら、花嫁は18歳前後と推察するのは、べつだん、異なことではなかろう。

じつは、ぼくは、この三女の母に、阿記をあてていた。

【参照】2008年2月4日[与詩を迎えに][(41)

鎌倉の縁切り尼寺で、身ごもっていることが分かり、父親に間違いない銕三郎へ知らせる。
いまだ部屋住みの身分の銕三郎は、困惑・苦慮の末、父・宣雄に告白・相談する。
と、父はあっさり、生まれた子は、自分の子として幕府へ届けると言ってくれた。
18歳の銕三郎が21歳の阿記とねんごろになったのを、宝暦13年(1763)の初春に設定したから、宣雄45歳、内妻・(たえ)38歳である。

は、史実では、知行地・上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村(現・千葉県山武市寺崎)のむすめだが、部屋住み時代の宣雄が手をつけ、銕三郎が生まれた。名前は、ぼくが戒名から一字とってつけた。
戒名:興徳院妙雲日省大姉
(寛政7年5月6日歿 平蔵宣以の死の4日前)

【参照】2007年7月24日[実母の影響]

阿記が産んだ女児を、自分が産んだように届けるのは、38歳のにすれば、銕三郎から18年ぶりの恥かきっ子であるが、承知するしかなかった。

女児の名も、阿記の一字をとって、阿美(あみ)とつけようと考えていた。

ところが、その阿美忠居への嫁入りが18歳とすると、彼女の生年は宝暦4年(1754)、銕三郎は9歳---阿記の子とも、もちろん、その前のお芙沙に孕ますこともできまい。

【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

ぼくの想像は、史実の前に、もろくも崩れ去ったのである。

三女の生年が宝暦4年なら、平蔵宣雄は35歳、は28歳---恥かきっ子とはいえない。


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