明和2年(1765)の銕三郎(その10)
「ご本家。まだ、よろしいのではありませんか?」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が、本家の当主・太郎兵衛正直(まさなお 56歳 火盗改メ・本役)を引きとめた。
「それがの。奈未(なみ 正直のニ女)が松田(善右衛門勝美 かつよし 20歳)の許(もと)から帰ってきておっての---」
「それではお止めできせぬ。里(さと 正直の内室)どの、奈未どのへよろしゅう---」
残った佐野与八郎政親(まさちか 34歳 使番)が、銕三郎(てつさぶろう)に訊いた。
「たしか、20歳(はたち)におなりでしたな?」
「はい」
「長谷川さま。さきほど、ご本家のお言葉ではございませぬが、今日のようなおめでたい席で申すのもなんですが、それがしの例もございます、銕三郎どののお目見(みえ)を早くおすませになられたほうが---」
「それがでござる、佐野どの。こちらが気をもんでいるのに、銕(てつ)が、まだ、学問の下吟味がうけられぬと申しまして、逃げているのですよ」
「そのことは、手前からお話しいたします」
銕三郎は佐野与八郎とは心易い。
「このニ之橋通りへ屋敷替えいたしまして、鉄砲洲の黄鶴塾が遠くなったので、近くの学問塾を探しているのですが、これとおもえるところが、なかなか、見つからないのです」
「見つからないのではなくて、見つけないのでしょう」
与八郎も、銕三郎の本音(ほんね)を読んでいる。
「銕三郎どの。父・与七郎(政隆 まさたか)が42歳で身罷(みまか)りました元文4年(1739)には、それがしは8歳でした。父は享保元年(1716)のお目見以来ほとんど寝たり起きたりでした」
与八郎の打ち明け話を手際よくまとめると、次のようになる。
19歳でお目見をしたものの、病身のために正室が迎えられない。しかし、看病にきていたむすめが与八郎を孕んだ。
宣雄が言った。
「手前とおなじです。3年前に物故した亡父は、継嗣ではなく3男で、厄介者の身分でしたが、手前を孕ませました」
【参考】2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2007年4月12日[寛政重修諸家譜](8)
与八郎の祖父・政春(まさはる)は、それがために駿府城代を早めに辞して江戸へ帰り、万が一に備えていた。 万が一は現実となり、8歳の与八郎が残されたが、その3年後には、祖父も65歳で歿する。
与八郎は幸い、その1年前、10歳でお目見をすませていたので、跡目相続もとどこおりなく受けつけら;れた。
「銕三郎どの。お目見を済ませておくことは、幕臣たる者には、親孝行の一つと申せますぞ」
与八郎を兄とも敬っている銕三郎に、この一と言は、こたえた。
(佐野家3代 与八郎はこの日の使番まで)
「巨細(こさい)を見れば、どの家にも、それぞれの事情があるということだな」
本多采女紀品(のりただ 53歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手組頭)がのんびりした声で言い、座が一転してなごんだ。
【参考】2007年6月4日[佐野与八郎政信]
2007年6月7日[佐野与八郎政信](2)
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