明和2年(1765)の銕三郎(その11)
「長谷川どの。いい屋敷が手に入りましたな。さすが---と感じいっております」
本多采女紀品(のりただ 52歳 先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭)が褒めた。
長谷川平蔵宣雄(のぶお 47歳 この日から先手・弓の8番手の組頭)が恐縮する。
「いや、その節は、本多どのからもお知恵をいただきながら、小普請組支配の有馬采女則雄(のりお)さまへもお願いにあがらずじまいで---」
【参考】有馬采女則雄のことの経緯は、2008年3月1日[南本所三ッ目へ] (8)
「なんの、なんの。おかかわりを持たれずにすんで、かえってよろしゅうござった」
「田沼(主殿頭意次 おきつぐ 47歳 遠州・相良藩主)さまのご用人・三浦どのの肝いりをいただきまして---」
「いよいよ、長谷川どのにも、火盗改メのご用命がくだりますな」
「とんでもございませぬ。本家はともかく、わが家は、そのような家系ではございませぬゆえ」
宣雄が生真面目な表情で否定するのを、銕三郎(てつさぶろう 20歳 のちの小説の鬼平)が不服げに見守っている。
「いや、そうではござらぬよ、長谷川どの。いまの先手の組頭で、火盗改メに任じられた顔ぶれをごろうじろ」
弓・5番手
笹本靱負佐忠省(ただみ) 54歳 2年 500俵
火盗改拝命 宝暦13年(1763)2月16日 (52歳)
免 同 5月14日
拝命 宝暦13年(1963)11月26日 (52歳)
免 明和 元年(1764)4月6日
拝命 明和元年 (1764)9月7日 (53歳)
免 同 2年 (1765)5月24日
【参考】笹本靱負佐忠省については、[本多采女紀品] (,2) (3) (5) (6) (7)
弓・7番手
長谷川太郎兵衛正直(まさなお)56歳 2年 1450石
火盗改メ拝命 宝暦13年(1763)10月13日 (54歳)
免 明和 元年(1764)5月4日
拝命 明和 2年(1764)4月1日 (56歳)
鉄砲・10番手
酒井善左衛門忠高(ただたか) 54歳 5年 1000俵
火盗改メ拝命 宝暦11年(1761)9月27日 (50歳)
免 同 12年(1762)閏4月4日
鉄砲・16番手
本多采女紀品(のりただ) 52歳 4年 2000石
火盗改メ拝命 宝暦12年(1762)12月12日 (49歳)
免 同 13年(1763) 5月14日
*()内の年齢は、発令年のもの。
「ご覧のように、50歳代の先手・組頭にまわってくる役目とお覚悟めされい」
本多紀品の言葉に、銕三郎の目が一瞬、かがやいた。
しかし、平蔵宣雄はあくまで冷静に、
「50歳代の組頭の方々と申せば、弓では、堀どの、桜井どのもおられます」
「堀信明(のぶあきら)どのは、家禄が1500石で、役高がつかないことを理由に、避ける工作をしておられるらしい。桜井以勝(よりかつ)どのは、病身で、いつ辞表が出てもおかしくないありまさ---」
【参考】弓組の組頭のリストは、2008年3月9日[ちゅうすけのひとり言] (8)
「鉄砲のほうにも、雨宮どの、諏訪どの、竹中どの、松前どの、浅井どの---などもいらっしゃいますれば---」
【参考】鉄砲組の組頭のリストは、2008年3月10日[ちゅうすけのひとり言] (9)
「長谷川どの。若年寄でもない拙が、用命するわけではござらぬ。おこころしておかれよ---と申しているだけです」
「本多どののように、与力10騎、同心50人という組なれば、火盗改メの職務もつつがなくこなせましょうが、なにしろ、わが組は、与力5騎、同心30人なので---」
「愚痴は、若年寄筋か、田沼さまへ申されよ」
これで、笑いとなった。
【ちゅうすけ注】その後、鉄砲の21番手の浅井小右衛門元武(もとたけ)、23番手の曲渕隼人景忠(かげただ)も拝命し、本多紀品も2度目の用命を受けた。
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