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2008.07.16

宣雄・西丸書院番士時代の若年寄(3)

長谷川平蔵宣雄(のぶお 400石)は、西丸・書院番士を、30歳の初出仕から、宝暦8年(1758)9月15日(41歳)に小十人頭に栄進するまで、足かけ11年勤めた。

その間に、3番組の番頭が2人代わったことは、すでに、2007年5月5日[宣雄、西丸書院番時代の上役]に掲出した。
姓名を再録すると、初出仕時が柴田但馬守康完(やすのり 54歳=寛延元年 5000石)、2番目は仙石丹波守久近(ひさちか 39歳=寛延3年就任時 2000石)、小十人頭へ栄進したときの番頭が岡部伊賀守長晧(ながつぐ 43歳=就任時 3000石)。

与頭(くみかしら 組頭とも)は、最初が松平(久松)新次郎定為(さだため 64歳=寛延元年 1000石)。この人のことは、
2007年5月4日[寛政譜(21)]と、
2007年5月6日[松平新次郎定為]に記している。
つぎの与頭の能勢十次郎頼種(よりたね 52歳=宝暦5年就任時 600石)---といった上役の移動がもっともかかわりの深い身辺変化だったろう。
参照】2007年5月20日[組頭、能勢十次郎頼種]
2008年7月14日[宣雄、西丸書院番士時代の若年寄]

しかし、宣雄が西丸・書院番に出仕して2年目、寛延2年(1749)6月29日の、三浦志摩守義理(よしさと 54歳=辞職時 西尾藩主 2万3000石)の西丸・若年寄の突然の辞職と隠居、翌々年の宝暦元年(1751)に明らかになった辞職・隠居の真相も、宣雄にとっては衝撃だった。

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(西丸・若年寄 三浦志摩守義理の個人譜)

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(西丸・若年寄 三浦義理家の寛政譜)

三浦家は、領地・相模国三浦を姓にしているほど、頼朝(よりとも)以来の名家である。
志摩守義理の父・壱岐守明敬(ともひろ 壬生、延岡、刈谷藩主 2万3000石)は、25歳で晴れの奏者番となったが、拝謁の者の名を口ごもったのをとがめられて、とりあえず若年寄職へ退避、3ヶ月で復帰という珍プレーをやっている。政治力もかなりのもので、転封も3度。

3男の幼名・求馬(のちの義理)は、父の延岡藩主時代に同地で生まれているから、国許側室の子。
刈谷城へ移ったときは、17歳。
正室から生まれた兄・明喬(あきたか 享年=38歳)が、家を継いで2年後に逝ったので、藩主の座が7歳年少の義理(31歳=家督時)にまわってきた。
花の奏者番へは、なんと、46歳の壮年も終盤だった。
西丸・若年寄は47歳の大器晩成型。

そして、すでに記したように寛延2年の辞職と、家督を舎弟・明次(あきつぐ 32歳)へ譲渡となる。

さて、壱岐守改め、主計頭義理が一族の罪に関連した事件は、宝暦元年(1751)10月12日に決着した。
この年をわかりやすくするために書いておくと、宣雄が西丸・書院番に出仕して4年目。
また、6月20日には、大御所・吉宗(よしむね 68歳)が歿している。

主計頭義理の祖父の次弟が、5000石を分与されて分家した。
その三代目・肥後守より(木偏に坒)(つぐ)は、だから、義理の従兄にあたる。
5000石の大身旗本にふさわしく定火消、小姓組の番頭、西丸や本城の御側などを歴任、位も諸大夫の従五位下。
それが植村千吉某の殺害について大目付の推問があったとき、嘘の陳述をしたのは、御側をもつとめる身に似合わないから死罪に相当するが、宥(ゆる)されて本多美濃守忠敞(ただひさ 25歳 古河藩主 5万石)に預けられた。

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(三浦より次・員次の個人譜)

息・織部正員次(かずつぐ)も中奥の小姓として勤めていたのに、同事件で真実を述べなかったとして、遠流のところを宥(ゆる)されて、宗家の主計頭義理に預けられた。

一族の男たちの処分は家譜のとおり。

吉宗が行ったかずかずの改革の一つに、罪を家族や一門におよばせないというのがあるが、この処分でみるかぎり、義理の西尾藩がとりつぶされていないのかそれか。
もっとも、家を継いだ明次は、西尾から美作国勝山へ国替えさせられている。参勤交代でいうと、江戸から104里遠くなった分、物入りになったから、藩や家臣としては痛かったろう。せっかく先々代が延岡から三河へと距離を縮めたのに。

ちゅうすけのつぶやき】植村某の殺害事件の推移はまったく不明。西尾藩か勝山藩の郷土史家の方に教えを請いたい。

この事件のとき、銕三郎(てつさぶろう)は7歳。
宣雄の正妻・波津(小説での名)は2年前にみまかり、屋敷も赤坂から鉄砲洲築地へ移っていた。
宣雄が、銕三郎をさとす。
「公事(くじ 裁判ごと)で、曲りごとを口にしてははならぬ。無言はよし。武士たるものは、信頼を商人以上に尊しとする。信頼は、約束を守ることから発する。もっとも、約束をしないければ、破ることもないがの」

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